古代の歴史

ムーズ=アルゴンヌ攻勢1918年:実戦経験不足の新兵たち

総攻撃の決定

懸念を深めたドイツ軍は予備兵力のすべてを投入しており、損害も甚大だった。一方、連合国側は大西洋の向こうから絶え間なく流れ込む増援を受け取っていた。米仏軍は反撃を重ね、ついに総攻撃が決定された。それは、フランス北部に大きく張り出したドイツ軍の突出部の両翼で突破を図り、敵を「難攻不落」と目されていたアルデンヌの森という天然の要塞へ追い込み、殲滅しようとするものであった。

連合軍の作戦計画

イギリス軍は北から攻撃を仕掛け、ヒンデンブルク線を強襲したうえで、重要な鉄道結節点オルノワへ突進することになっていた。フランス軍は南のアメリカ軍の橋頭堡に依拠し、クリームヒルデ線(ヒンデンブルク陣地体系の一部)を突破してメジエールとスダンを包囲し、メスからドイツ軍へ物資を送る鉄道線を断ち切る任務を担った。

しかし、このように構想された攻勢には多くの批判が集中した。アルデンヌの森は決して難攻不落などではなく、無数の道路と鉄道が縦横に走り抜けていたのである。この事実を痛感することになるのは、1940年の別の世代の兵士たちであった。

パーシングの強硬な主張

アメリカ遠征軍(A.E.F.)を指揮するジョン・J・パーシング将軍は、頑強で融通のきかない、しばしば冷酷で頑固だと評される人物だった。彼は、アメリカ部隊を英仏軍の指揮下に編入せよという両国の要求に徹底的に抗い、とりわけ、準備中の大攻勢の南正面の指揮権をフランス人将軍に委ねることを頑として拒否した。

最高司令官フォッシュとの率直な協議の場で、パーシングはこう宣言している。
「我々の部隊の分散を求めるいかなる計画にも、これ以上賛同することはできない。経験を積んだ今、将校も兵士も、他国の軍隊に組み込まれることに同意しないのは明らかだ」
新鮮なアメリカ軍の推進力と火力を何よりも必要としていたフランス側は、この条件を呑まざるを得なかった。

60万人の大移動

アメリカ軍はすでに南方のサン=ミイエル〜ベルフォール一帯で大規模な作戦に従事していた。そのため、60万人もの兵力を急速に北方へ転進させなければならなかった。この性急な移動はアメリカ軍の補給体制や衛生組織を混乱に陥れ、結局パーシングは、従来の自軍陣地に近いアルゴンヌの東側から攻撃を開始せざるを得なくなった。

圧倒的な数的優位

米仏両軍は大きな数的優位を握っていた。アメリカ軍13個師団、フランス軍31個師団に対し、敵は約20個師団に過ぎなかった。アメリカの師団は通常の9個ではなく12個歩兵大隊で編成され、各師団2万8,000人に達した。支援部隊まで含めれば、その戦力は同一戦域の他の師団の実に3倍に相当した。

そのうち9個師団がヴォージュ地方で32キロの正面に展開して華々しい陽動攻撃を行い、ドイツ軍を大きく揺さぶった。初戦の戦果を拡大するために3個師団が控え、さらに3個師団が軍予備として待機した。拡大する攻勢を食い止めようとしたドイツ軍は、フランス軍と対峙していた自軍16個師団から兵力を引き抜かざるを得なかった。

経験不足の新兵たち

アメリカ軍は最も錬度の高い部隊をサン=ミイエルの戦いの仕上げに残す必要があった。その結果、突撃師団のうち正規師団はわずか1個で、実戦を経験したことのある師団は他に3個だけだった。第4、第28、第33、第77師団である。「自由(リベルテ)」の愛称を持つ第77師団の列には、西部出身の4,000人が入営したばかりだった。

第80、第35、第37師団は前線の静穏な地区を担当した経験こそあったものの、太平洋岸とロッキー山脈出身者によって構成された第79師団の兵士たちには、そんな経験すらなかった。師団長たち自身も未熟で、5人はこれが初陣であった。

軍隊での経験がわずか一週間ほどしかないアメリカ兵たちは、確かに十分な準備ができているとは言えなかった。それでも彼らの士気は高く、敵と真っ向から渡り合うことへの待ちこがれるような意欲に満ちあふれていた。