
冬期ライン突破への決意
第2軍団長はなおも、敵前線を突破できると信じていた。ドイツ軍が冬の間じゅう連合軍を食い止めるために築こうとしている防衛線――いわゆる「冬期ライン」。彼はこの線を突き破る望みを捨てず、まずモゼロット(Moselotte)川東側の尾根群を速やかに掌握し、続いてランコフ(Rainkopf)、グラン・ヴァントロン(Grand-Ventron)、ドリュモン(Drumont)方面へと展開することを決意した。
さらに、シャトー・ランベール(Château-Lambert)〜ル・ティヨ(Le Thillot)の陣地帯――敵はここに堅固な陣地を築いていた――に対しても強襲をかけることとなった。
攻撃計画と戦力配置
ジェラルメール(Gérardmer)正面を掩護する第3アルジェリア歩兵師団(D.I.A.)は、第6モロッコ狙撃兵連隊(R.T.M.)の増援を受けて、テット・デ・セルフ(Tête-des-Cerfs)〜オー・デュ・ファン(Haut-du-Faing)〜ランコフの軸線に沿って行動する。一方、第1機甲師団(D.B.)は第1落下傘猟兵連隊(R.C.P.)およびアフリカ・コマンド群とともに、トラヴェサン〜ヴァントロン(Ventron)〜オーデラン(Oderen)とテュール(Thur)渓谷に向かって攻撃に参加する予定であった。
10月16日、オー・デュ・ファンへの突撃
10月16日、装甲部隊のためにブレス(Bresse)街道を切り開くべく、バイイフ(Baillif)大佐率いる第6R.T.M.はコルニモン(Cornimont)を起点に、オー・デュ・ファンへ向けて前進を開始した。標高1,003メートルのこの細長い丘は鬱蒼たる森に覆われ、その頂から上モゼロット、ブレス、スウルス(Xoulces)一帯を見下ろす要衝である。北側にはドゥ・ラトゥール(de Latour)大佐の第2モロッコ・タボール群(G.T.M.)が、南側にはアゴスティーニ(Agostini)大佐の第3アルジェリア狙撃兵連隊(R.T.A.)がこれを援護した。同時に、第1D.B.の精鋭歩兵はヴァントロン渓谷の両側面から攻撃を仕掛けた。
再び雨は滝のように降り注いだ。それでもモロッコ兵たちはオー・デュ・ファンの頂上へ到達し、コマンド部隊はオー・デュ・トントゥー(Haut-du-Tonteux)を占領し、落下傘部隊は標高1011の高地を制圧した。しかし他方、第4チュニジア狙撃兵連隊(R.T.T.)はテット・デュ・ロンファン(Tête-du-Rondfaing)の出発線に釘付けにされ、身動きできなかった。
血みどろの尾根――700人の代償
17日、第6R.T.M.はオー・デュ・ファンの攻略を完了した。だが渓谷において、ドイツ軍は一寸たりとも退かず、むしろ一時的な奇襲からたちまち立ち直り、利用可能な予備兵力の総てを投入してきた。その中には、「贖罪」を渇望する政治犯二個大隊――前日までカールスルーエ(Karlsruhe)にいた部隊である――さえ含まれていた。敵は至るところで反撃を下令したが、いずれも頓挫した。しかしこれほど流血にまみれた衝突は、かつて存在しなかった。あるドイツ大隊ひとつが、その兵力の70%を斜面に置き去りにしたのである。そしてオー・デュ・ファンを奪取した第6R.T.M.は、この尾根を保持するために、切り裂かれたモミの木々の下に700名の死傷者を残した。ドイツ砲兵は増強されており、森林内の砲撃は、攻撃の途上で足止めされ、遮蔽壕を築く暇もなかった部隊にとってとりわけ致命的だった。さらにオー・デュ・トントゥーの森では、アフリカ・コマンド群が92名の戦死者を出した。
ヴォージュの戦いの終結と静かな転回
この状況を目の当たりにしたドラットル(de Lattre)将軍は、あまりにも高くついたオー・デュ・ファン突破であったが、第2軍団の攻勢を停止し、その手中にある戦力の大部分を可及的速やかに引き抜くことを決断した。決定的要素としてのヴォージュの戦いは、ここに幕を閉じた。この戦いの結果、自走砲や対戦車砲を多数擁する25個を超える砲兵群に支援された55,000名の敵戦闘員が、我々の正面に釘付けにされることとなった。第2軍団正面におけるドイツ軍の増強は、主としてモンベリアール(Montbéliard)地域を犠牲にして実現されたものであり、これはすなわち、我々の主攻をこの地域へ不意打ち的に転じ、敵に新たな一撃を与える好機をもたらすものだった。そこでドラットル将軍は、必要な弾薬備蓄が整いつつあったこともあり、この攪乱作戦を第1軍団(C.A.)に託すことに決した。第1軍団は第5機甲師団(D.B.)と大規模な砲兵隊によって増強される。
奇襲を確実なものとするため、第2軍団には「明らかに攻勢的性格を持つ防御」という任務が与えられた。すなわち、我々がなお山地を通じて決戦を求めているという敵の確信を維持させるためである。実際、ドイツ軍司令部はヴォージュ正面における我攻勢の早期再開を予期していた。我々が第1D.B.、ポミエス義勇部隊(コール・フラン・ポミエス)、そしてアルザス=ロレーヌ旅団を軍予備へ移していたその間に、敵はノルウェーから呼び寄せた生力の第269師団を第3D.I.A.に対して投げ込んできた。しかしブレス北方におけるこの師団の突撃は、二個師団砲兵の集中射撃のもとで粉砕され、師団砲兵(A.D.)がベルフォール正面へ向けて出発する前に撃退されたのである。
ストラスブールへの道――ロション高地の確保
同じ頃、米第7軍は、ストラスブール(Strasbourg)に向けて準備中の攻勢の右翼を掩護してほしいと我々に要請してきた。我が正面左翼に位置するロション(Rochesson)高地の奪取は、この目的に応えるものであった。11月3日、第1自由フランス師団(D.F.L.)から抽出されたサイリニェ(de Sairigné)少佐指揮の外人部隊最初の大隊を含む諸部隊で増強された第3D.I.A.に委ねられたこの攻撃は、至る所で激烈な抵抗に阻まれた。なるほど、敵はヴォージュ正面こそ最重要正面と見做していたのである。第198師団と第269師団が緻密な弾幕を張って立ち塞がり、これを打ち破るには48時間に及ぶ凄絶な戦闘を要した。しかし11月5日までに、我々はあらゆる地点で目標を達成し、さらにはそれを超えていた。ロション、ムノリュプト(Menaurupt)およびその周辺の尾根を確保し、6日に一度、7日に二度仕掛けられた計三度の反撃をもってしても、我々をここから追い出すことはできなかった。
だがすでに、極秘でに、極秘裏に、第2軍団に配属された増援部隊の総てはこの正面を離れ、夜闇に紛れて第一軍正面の右翼へと移動を開始していた。ヴォージュの戦い、その最後の幕切れの喧騒が、翌日、ベルフォール回廊前面で行われるべき行動の準備を覆い隠していたのである。