
第二次世界大戦中の日本陸軍において、機甲師団は1942年に初めて本格的に編成されました。当初は4個戦車連隊を基幹とする「四連隊制」を採っていましたが、1944年以降は3個連隊による「三連隊制」へと移行していきます。
イタリア装甲師団に類似した編制
日本の機甲師団の組織構造は、同時期のイタリア装甲師団とかなり類似していました。ただし、装備する中戦車の数はやや少なく、約155両にとどまっていました。
遅れた機械化
砲兵連隊が自走砲を受領したのは1943年から44年にかけてのことであり、装甲兵員輸送車(APC)の配備もほぼ同じ時期から始まりました。開戦時点では、機甲部隊の機械化レベルは欧米の主要国に比べて大きく立ち遅れていたといえます。
編成された4個師団とその末路
この種の大規模装甲部隊は少なくとも4個師団が編成されましたが、そのいずれも敵の装甲師団と正面から渡り合う機会を得ることはありませんでした。各部隊は細分化されて逐次的な戦闘に投入され、戦力は次第に消耗していったのです。
第2機甲師団の悲劇
その典型例となったのが、日本陸軍第2機甲師団の運命です。同師団はフィリピンのルソン島に展開しましたが、1945年1月に始まった米軍のルソン島上陸作戦の中で壊滅的な打撃を受け、 organized な戦闘力を失っていきました。