古代の歴史

ファシズムとナチズム――ムッソリーニとヒトラー、二人の独裁者の軌跡と終焉

ロシアでボリシェビキ革命が成功し、共産主義国家が樹立されつつあった同時期、イタリアではファシズムが、ドイツではナチズムが台頭した。これらは一般に「反革命(カウンター・レボリューション)」と定義される存在である。

イデオロギーの核心:反革命としてのファシズムとナチズム

実質的にファシズムは「社会主義」に対抗し、ナチズムは「共産主義」に対抗して立ち上がった。ファシストは社会主義者を弾圧してイタリアで政権を掌握し、ナチスは共産主義者を弾圧してドイツで権力を握ったのだ。

ファシストもナチスも、個人の自由・平等・市民権を剥奪した。一方、イギリスやフランスのような国々では、革命後に自由・平等・個人の権利が最大限に尊重され、民主的・自由主義的な政府体制が確立された。この対比こそが、ファシズムとナチズムを「反革命」たらしめる所以である。

指導者たちの言葉

イタリア百科事典に寄稿したムッソリーニはこう記した。

「ファシズムは平和の必要性や利益を信じない。ゆえに平和主義を拒絶する。平和主義には闘争を拒み、犠牲の時に臆病になる欠陥があるからだ。戦争、ただ戦争のみが人間の力をより高次のレベルへと昇華させる。」

「戦争を受け入れる勇気を持つ共同体のみが、その上に高貴さを刻印する。他のすべての実践は人為的であり、人間の前に生と死の問題を提示しない。」

ムッソリーニ政権の文相ジョヴァンニ・ジェンティーレは、ファシズムのイデオローグとして次のように説いた。

「人々は民主的な方法で個人の特性を通じて自己の実在を求めてはならない。超越的自我の行為を通じて世界の自己意識へと至るファシスト的方法によってこそ、そうすべきである。……願いを実現する能力を持つ限りにおいて、その力は道徳的である。それゆえに説教でも棍棒でも、あらゆる手段を用いよ。」

インド首相ジャワハルラール・ネルーはファシズムをこう評した。

「ファシズムは頑強なナショナリストであり、国際主義に反対する。国家を神格化し、その祭壇の上に個人の自由と権利を生贄として捧げさせる。ファシズムの目には自国のみが『自国』であり、他のすべての国は異邦人であり、敵と等しい。」

ローマでの邂逅:二人の独裁者の蜜月

類似した思想を持つ二人が親密になるのは自然な成り行きだった。ファシズムの父ムッソリーニとナチズムの父ヒトラーは友人となった。1938年5月3日、ムッソリーニはヒトラーをローマに招待した。世界は衝撃を受けた。世界の二大独裁者の結託は、世界にとって重大な脅威となるはずだった。

ローマは花嫁のように飾り立てられた。ヒトラーの帽子一顆投げつけられぬよう、至る所に警備兵が配置された。ヒトラーは側近のゲッベルスとリッベントロップ、ドイツの外務・内務・情報・国防・軍事各省の高官500名、主要紙編集長らを引き連れ、専用列車でドイツからイタリアへ向かった。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と首相ムッソリーニ自らが出迎え、ヒトラーはムッソリーニと握手し、栄誉衛兵を閲兵した。その後、両国高官は秘密の部屋で会談を行った。その会談で何が語られたか、世界は決して知ることはなかった。

世界が熱くなる

ヒトラーがローマから帰還すると、世界は突如として熱を帯びた。素人にもイタリアとドイツがイギリスとフランスを相手取ることは明らかだった。当時、中国と日本、スペインでは深刻な動乱が続いていた。今やドイツがいつイギリスを攻撃してもおかしくない情勢だった。

チャーチルは即座に400万の戦士に銃を携えさせ、戦闘機を倍増させた。同じ週、ルーマニアで革命が勃発し、トブルクが陥落。日本はアメリカを牽制し、ギリシャはヒトラーとムッソリーニの条約に刺激されアルバニア戦争で勝利を収めた。

イタリアの戦場と第二次世界大戦への道

ヒトラー来訪前には伊仏協議が進んでいたが、帰還後は突如として打ち切られた。イタリア紙はコルシカとチュニスの領有を叫んだ。イタリアが海路からフランスを攻撃することは必至と思われた。ムッソリーニはすでに、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、ブルガリア、黒海、ドナウ河口までのソ連影響圏を容認し、イラク、イラン、アフガニスタンもソ連の影響下に置くことで合意していた。今やイタリアで戦争の鐘が鳴り響いた。

第一次大戦から第二次大戦へ

第一次世界大戦ではムッソリーニはドイツに反対し、連合国側で戦うことを説いた。イタリア国王エマヌエーレも連合国側で参戦したが、第二次大戦への参戦可否はムッソリーニ自身が決断しなければならなかった。この頃にはヒトラーはドイツの独裁者として、ムッソリーニの親しい友人となっていた。

したがってムッソリーニは第二次大戦でドイツ側に立つことを決めた。イギリスやフランスのような自由主義的社会主義国と戦うことは、彼にとってあり得ない選択だった。ドイツ側諸国は「枢軸国」、イギリス側諸国は「連合国」と呼ばれた。イタリア国王「エマヌエーレ」もヒトラーも、戦争そのものは望んでいなかったが、もはや避けられなかった。

クララ・ペタッチとスパイ疑惑

第二次大戦勃発直前、若きクララ・ペタッチがムッソリーニに接近し、間もなく愛人となった。イタリア軍と情報部は、彼女がヒトラーの手先として送り込まれ、政府内部の決定をヒトラーに報告していると疑った。

警察・軍・情報部のトップらは協議の末、ファシスト軍の「ガルガーノ」の協力を得て覚書を作成し、ムッソリーニに直訴した。「クララはヒトラーのスパイである。この女を遠ざけよ」と。ムッソリーニは激怒し、進言した将校たちを即座に解任した。

第二次大戦勃発とイタリアの苦境

まもなく欧州で第二次大戦が勃発した。ヒトラーとムッソリーニが仕掛けた戦争の主標的はイギリスとフランスだった。多くの国が巻き込まれ、世界は明確に二分された。世界の半分をムッソリーニ、ヒトラー、東條英機が率い、残り半分をチャーチル、スターリン、ルーズベルトが掌握した。

ムッソリーニの窮地

ヒトラーがフランスを撃破する一方で、ムッソリーニは国内を掌握できなかった。国王から庶民、ジャーナリストから兵士まで、誰も彼の戦争政策を支持しなかった。ファシスト軍は奮戦せず、イタリア軍は各戦線で敗北。ついにイギリス軍がシチリア島に上陸した。

ムッソリーニはヒトラーのもとへ「フェルティレ」へ飛んだ。ヒトラーは「ドイツでアメリカとイギリスを灰燼に帰す兵器が完成しつつある。戦線を維持せよ」と説得した。ムッソリーニは上機嫌でローマへ戻ったが、その頃にはすでにローマへの空襲が始まっていた。

ローマ陥落の予感とグラン・コンシリオ

ムッソリーニはヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に「未来は明るい」と報告したが、国王は「未来は暗い。ドイツ兵は逃げ、イタリア兵が死んでいる。シチリアを失った。戦争をやめねばローマが滅ぶ」と諭した。ムッソリーニは激怒して退出した。

国王の進言を聞き入れぬムッソリーニに対し、国王はグラン・コンシリオ(ファシスト党最高会議)を招集した。ムッソリーニは野党指導者グランディが不信任決議を提出することを察知し、王宮をファシスト兵で囲み、出席者36名を黒ヴェールで覆った車両で王宮内庭へ誘導した。全員が黒服で会議場へ入った。

ムッソリーニはファシスト党首の制服で現れ、厳しい口調で開会を宣言した。「シチリア陥落の責任を問う。住民は連合軍を解放者として迎え、イタリア兵は抵抗せず、ドイツ兵だけが最後まで戦った」と。

グランディが立ち上がり、反論した。「我が軍に罪はない。すべての責任はムッソリーニにある。彼はイタリアをドイツの腕の中へ売り渡した。あの日、お前は国の威信と名誉に反して戦争へ引きずり込んだ。今、イタリアの母たちが叫んでいる。『ムッソリーニが我が息子を戦場で殺した』と」

長い論戦の末、グランディは不信任動議を提出。ムッソリーニは「私が戦争を始めた。私が終わらせる」と言い放って会議を打ち切ろうとしたが、議員たちは猛反発。夜2時まで紛糾し、採決の結果、反対19、賛成17でムッソリーニは敗北した。

退場の際、ムッソリーニは「貴様らは統治危機を招いた。王政が復活し、民主主義が終わる」と捨て台詞を吐いた。ファシスト党書記長が感謝決議を出そうとしたが、ムッソリーニは拒否し、書類を抱えて退場。グランディとチャーノ(娘婿)の逮捕を命じたが、チャーノはすでにムッソリーニに反旗を翻していた。

国王との謁見と逮捕

翌夕、ムッソリーニは平服で王宮を訪れた。首相が国王に謁見する際の決まりだった。国王は元帥服で階段まで出迎え、ムッソリーニを驚かせたが、温厚に応対した。

ムッソリーニは「不信任決議は戦時下では無効だ」と主張したが、国王は「会議の決定を尊重し辞任せよ。イタリア国民の誰もお前を望んでいない。今やお前はイタリアで最も忌わしい存在だ。バドリオ元帥が軍と警察の支持を得ている。国の安全は彼に任せる」と突き放した。会談はわずか20分で終わった。

ムッソリーニが階段を降りて自車を探していると、一人の元帥が敬礼し、「こちらの車へ」と赤十字の閉鎖車両を指し示した。「私は逮捕されるのか?」「はい、閣下、逮捕されます」

赤十字車両で軍営へ移送される際、ローマの街には連合国の爆弾が雨のように降り注いでいた。それらはムッソリーニ自身が招いたものだった。翌朝、ローマ市民は歓喜のあまり街へ繰り出し、ムッソリーニの肖像を焼き、ファシスト党本部を破壊した。ムッソリーニはローマから離島コテ・ディ・チャーノへ移送された。そこはかつてローマ皇帝アウグストゥスの娘ユリア、ネロの母アグリッピナ、ある教皇が幽閉された地でもあった。

羊飼いとの出会い、そして救出

連合軍がその島を爆撃し始めると、ムッソリーニは別の場所へ移された。1943年7月25日、ムッソリーニは正式に辞任。ヒトラー側が安否を問い合わせてもイタリア政府は明確に答えなかったが、やがて逮捕の事実が判明した。

ヒトラーは駐伊ドイツ大使に面会を命じたが、新首相バドリオは拒否。数日後、ムッソリーニは標高3,000フィートの「グランサッソ」山頂のホテルに幽閉された。ある散策中、一人の羊飼いが彼に気づいた。元ファシスト党員だった。

「ドイツ軍がローマの門前まで来ている。ドイツには『ムッソリーニはスペインへ逃亡した』と伝えられ、イタリア国民には『銃殺された』と発表されている。心配するな。お前がここにいることをドイツ兵に知らせてやる」

羊飼いはローマへ赴きドイツ軍に報告。情報は即座にヒトラーへ伝わり、ヒトラーはオットー・スコルツェニー大尉に救出を命じた。スコルツェニーはグライダー部隊を率い、ムッソリーニ幽閉の山頂へ強襲降下した。

グライダーを見たムッソリーニは連合軍の襲撃かと思ったが、ドイツ軍の救出だと知ると安堵した。スコルツェニーはムッソリーニを機体に乗せ即座にドイツへ飛ばした。同日、ムッソリーニの妻も自宅から連れ出されドイツへ移送された。

サロ共和国の樹立と報復

ベルリンでヒトラーとムッソリーニの間に新協定が結ばれた。ヒトラーはイタリアにおけるファシスト政権の再建を約束し、ムッソリーニはイタリアの一部領土をドイツに割譲することを了承した。

ムッソリーニはイタリアへ戻り、ガルガーノを拠点として「ファシスト政権を再建し、指導権を回復した。イタリアとドイツは連合国に対し最後まで戦う」と国民に宣言した。国王はローマを脱出し連合国の保護下に入った。グラン・コンシリオで反対票を投じた19名は全員逮捕され裁判にかけられ、チャーノを含む18名が死刑、1名が懲役30年となった。

娘エッダ・チャーノが夫の助命を懇願したがムッソリーニは拒否。エッダはヒトラーに直訴したが「ムッソリーニには何も言えない」と断られた。機密文書と引き換えに夫の命を乞うてもムッソリーニは聞き入れず、エッダがヨーロッパの有力者たちを回っても、すべて門前払いを食らった。

ローマ解放と最期

ムッソリーニ復権後もファシスト軍は敗退を重ねた。主因はムッソリーニを指導者と認めぬ愛国的軍人たちが「民族解放軍」を結成し、彼に協力しなかったことにある。1944年6月4日、連合軍がローマを解放した。

ミラノでの処刑

1945年4月、ミラノでムッソリーニと民族解放軍幹部の会談が持たれた。解放軍はドイツとの断交と停戦を要求したが、ムッソリーニは受け入れられず、側近とドイツ人護衛を連れてコモ方面へ逃亡した。途中でクララも合流した。

逃亡を察知した愛国部隊が追撃し、多数の護衛を射殺。ドンゴで検問に遭い、全車両が捜索された。あるドイツ軍トラックの運転席後部に、ドイツ軍オーバーコートを着て深く帽子を被り、襟を立て、黒縁眼鏡をかけた男がうたた寝していた。ドイツ兵が「酔っ払った仲間だ」と弁解したが通用せず、愛国軍のベラリオ大佐とレンツォ兵長がムッソリーニだと見抜き、即座に拘束した。

1945年4月26日、ムッソリーニら民族解放軍によって米軍に引き渡された。4月28日、ムッソリーニ、愛人クララ・ペタッチ、側近たちは処刑され、遺体はミラノの広場に無惨に吊るされた。

群衆は死体に唾を吐きかけ、泥を塗りたくって怒りを表した。ここにイタリアのファシズム運動は終焉を迎えた。米軍はムッソリーニの脳を摘出し、アメリカへ持ち帰って研究した。

逃走車両からは、10億リラ、金66キロ、1,600万フラン、20万スイスフラン、英ポンド、多額の米ドル、スペイン・ポルトガル通貨、多数の宝石指輪が発見された。