古代の歴史

わかりやすい古代エジプト史:三大王国の興亡と王朝の変遷

はじめに

古代エジプトは、メソポタミアの国家と同様に、王の権威と宗教を用いて集団を統合しました。むしろ、王による統一国家の成立はメソポタミアよりも早かったとされています。

エジプトでは、太陽神ラーを中心とする宗教が古くから信仰されてきました。今回は、古代エジプトに登場した王朝の歴史を、時代順に見ていきましょう。

エジプト最初の国家――ファラオの神権政治

エジプトの王は「ファラオ」と呼ばれ、王を現人神(生ける神)として崇拝する神権政治が行われていました。王は国土を所有し、その一部を少数の神官や官吏に与えて国を運営していましたが、その他の大多数の住民は課税の対象であり、無給の労働力として扱われていたのです。

ピラミッドは、そうした身分の人々の中から選ばれた者たちによって建設されました。クフ王の墓として有名なピラミッドの建設は、「王が絶大な権力を持っていた」ことの証左といえます。

なお、以前のように奴隷による強制的な労働ではなかったと考えられています。日本の古墳時代に古墳造営が公共事業として行われたのと同じように、エジプトでもピラミッド造営は農閑期に行われる公共事業の一環だったのです。

最初の繁栄期――古王国時代

ピラミッドやスフィンクスといった巨大建造物を造れるほどの王権を誇ったのが古王国です。首都メンフィスを中心に栄えました。

古王国は約500年にも及ぶ長い統一王朝を築きました。しかし時代が終わりに近づくにつれ、官僚機構が肥大化して財政を圧迫するようになります。また、初期に精巧に作られたピラミッドも、末期には粗末なものへと質が低下していきました。

これはあくまで想像ですが、以下のようなことが起こっていたのかもしれません。

  • 業務効率化を図った結果、官吏の数が増えすぎて財政難に陥った
  • 公共事業が削減され、熟練した専門職をできるだけ少人数で雇おうとした

農閑期の公共事業という側面もあったため、雇用数や事業規模を縮小すれば失業者が増え、治安が悪化します。治安の悪化は税収の悪化にもつながるでしょう。

さらに、治安が悪化したり国家の統制が失われたりすると、人々は「心の拠り所」を求めるようになると考えられます。実際、太陽神ラー信仰に加えて、冥界と復活の神オシリスへの信仰が古王国末期には民衆の間に広まったようです。

  • オシリス信仰の本格的な広まり
  • 公共事業の復活

これらが建造物建設の一因となり、それまで以上に採石や銅の採掘、石材などが必要になったと考えられます。

すでにメソポタミアとシリアではアッカド帝国による統一国家が成立していたため、建造物の材料を手に入れるには、アッカドやその手前のシナイ半島・パレスチナとの交渉が必要でした。需要が高まるほど相手側は高い値段を要求するでしょうから、交渉は難航し、軍事遠征につながることも十分あり得ます。

実際、シナイ半島やパレスチナとの交易交渉だけでなく、軍事遠征を繰り返した痕跡が現代にも残っており、これらの遠征も財政悪化に拍車をかけました。

こうした事情により、古王国の政治体制は権威を失い、統制力を欠くようになりました。そして各地の州侯や官吏が実権を握るようになっていくのです。

次に栄えた中王国時代とは?

指導力を失ったメンフィスに代わり、上エジプト(ナイル川上流)のテーベから新しい王朝が興りました。これが中王国です。

当時、メソポタミア全土を支配していたアッカドは中王国時代の半ばに滅亡しますが、ウル第三王朝やアッシリア王国といった先進技術を受け継ぐ強力な王国がメソポタミアに存在し続けました。古王国時代にはメソポタミアへの軍事遠征も行われましたが、中王国はメソポタミアやシリアと密接な関係を築き、交易を中心とした交流による共存を目指したようです。一方で、エジプト南部のヌビアの支配も忘れず、領土拡大も進めています。

また、シリアとの交易が盛んだった時期には、ナイル川から古代エジプトに存在したカールーン湖(現在のカルーン湖としてその名残が残ります)への水路を拡張し、その周辺地域を開墾して国内有数の穀倉地帯とすることで国力を増強しました。

エジプト文学が誕生したのも中王国の時代だと言われています。しかしそんな中王国の全盛期にも、次第に影が差し始めます。

王位継承をめぐる内紛が起こると、王権は一気に弱体化しました。その間に、アナトリアではヒッタイトが、メソポタミアの大部分ではバビロン王朝が、さらに東のイランではカッシートがそれぞれ勢力を伸ばしていきます。

おそらくこうした強国の出現で居場所を失った遊牧民たちが、ヒクソスと呼ばれる集団としてエジプトに侵入し、領土の一部を奪ってしまったのです。

ヒクソスを追放した新王国の誕生

紀元前16世紀に台頭した新王国は、中王国末期に侵入した遊牧民ヒクソスを追放しただけでなく、パレスチナ・シリア方面への領土拡大にも成功しました。古代エジプト最盛期の文明を築き上げたのです。ツタンカーメンの黄金のマスクやネフェルティティの胸像といった輝かしい芸術作品(アマルナ美術)も、この時期に生み出されました。

新王国時代、エジプトから少し離れたアナトリアを本拠地とするヒッタイトがシリア方面へ進出してきました。エジプト新王国もまたシリアへ進出していたため、両国の衝突は避けられません。紀元前1286年のカデシュの戦いは、歴史上初めて軍事的記録が残された戦いであり、講和条約の締結によって後世にその名を残すことになりました。エジプトは一時的に領土を獲得しましたが、結局は再びヒッタイトに奪い返されています。

同じ頃、エジプトでは遊牧民ヘブライ人(自称イスラエル人)がファラオの圧政に耐えかねてエジプトを脱出し(出エジプト記)、南パレスチナでの建国の基礎を築きました。さらにヘブライ人と同じ頃、アラム人やフェニキア人も都市国家を形成しつつあり、エジプト新王国が支配していたパレスチナとシリアからは、次第に手を引いていくことになります。

そんな折、「海の民」が突如出現し、ヒッタイトを滅ぼしました。この海の民がどこから来たのか、その詳細はよくわかっていませんが、彼らはエジプトにも侵攻してきます。エジプト新王国は海の民を撃退しましたが、西からのリビア人の侵攻によって領土は大きく縮小し、紀元前1070年頃に新王国は終焉を迎えたのです。

繁栄期の後――異民族支配の時代へ

新王国の衰退後、エジプトは他国に対して軍事的劣位が続きます。かつてエジプトが支配していた南のヌビアは逆にエジプト全土を支配下に置き、メソポタミアからパレスチナまで広範囲を覆うアッシリア王国の支配も受けました。幾多の曲折を経ながらも、古代エジプトの王朝は新王国滅亡後も存続することができました。

その後、紀元前7世紀頃、ペルシャのアケメネス朝が北イランのメディアを滅ぼし、徐々に西方へ進出してエジプトを支配下に置きます。一度は撃退したものの再び支配され、11年後には古代ギリシャ人が建てたマケドニア王国のアレクサンドロス大王の支配を受けることになります。

ペルシャによるエジプト支配がまだ定着していなかったこともあり、アレクサンドロス大王は(ペルシャと比べて)ファラオとして好意的に受け入れられたようです。

しかし、アレクサンドロス大王の死後、後継者たちの争いが勃発します。その一人がエジプトのファラオとして新王朝(プトレマイオス朝)を開きますが、シリアをめぐる紛争やローマ共和政の影響力拡大により衰退していきます。最終的には、当時の地中海の覇者ローマに敗れ、紀元前30年に古代エジプトの独立王朝は幕を閉じたのです。