古代の歴史

メソポタミア文明の興亡――世界最古の文明はどう発展し、滅んでいったのか

世界最古の文明を育んだチグリス・ユーフラテス川流域

人類最古の文明が花開いた地域として知られるのがメソポタミアです。これはチグリス川とユーフラテス川に挟まれた流域一帯を指します。紀元前8000年頃には農業革命が始まっており、世界で最初に農耕と牧畜が行われた土地でもあります。

水の少ないこの地域では、灌漑農業が考案されました。灌漑農業が普及して以降、人口は爆発的に増加します。特にメソポタミア南部では、紀元前3500年頃から急激な人口増加が見られたとされています。

シュメール人が築いた世界最古の文明の始まり

灌漑農業によって定住生活が広まると、人類は血縁関係で結ばれた小さな集団から、大規模な集団による社会生活へと移行していきます。このとき、社会の安定を支えたのが宗教でした。

そもそも人類は、厳しい自然環境の中で死と隣り合わせの日々を送っており、農耕以前の時代から、生と死に対する認識や来世観といった宗教的な思考を持っていたといわれています。

農業の発展によって貧富の差が生まれると、血縁のない個人同士の結びつきはもろく、何もなければすぐに崩れてしまいます。そこで同じ宗教への信仰が、脆弱な絆をつなぎ留める役割を果たしたのです。その信仰の象徴となったのが神殿でした。

あくまで推測ではありますが、富裕層は神殿や神像の建立を通じて自らの信仰を深め(神殿の建設は紀元前3500年頃)、貧しい人々は神殿に心の安らぎを得る場所を見出しました。こうすることで、自分や家族の安全を確保しようとしたのだと考えられます。

不安を癒す場の提供は、治安の安定にもつながります。周辺の村に住む人々は、神殿の建設によって治安が良くなった村を見て、「きっと神殿のおかげだ」と信仰をいっそう強めたことでしょう。

こうした経緯から、メソポタミアでは神殿を中心とした大きな村落が形成されていきます。その中でも、民族系統の不明なシュメール人が目覚ましい進歩を遂げました。

シュメール人の都市国家

シュメール人は、次のような成果を上げ、当時の最新技術を取り入れた社会を作り上げました。

  • 文字(楔形文字)の発明
  • 銅器・青銅器などの金属器の普及

すると、司祭・戦士・職人・商人といった非農業従事者が増え、かつての大規模村落が都市へと発展していきます。人口が増えるほど灌漑設備の整備が必要になり、優れた指導者が求められました。そこで生まれた指導者が「王」です。

こうして王を中心に多様な人材が集まる階級社会となった都市国家が誕生します。王を中心とする都市国家には、壮麗な神殿や宮殿、王墓が建ち並びました。

しかし、これほど繁栄したシュメール人も、メソポタミア内で複数の類似勢力(都市国家)が乱立して王朝を築いたことで、都市国家間の争いが絶えなくなります。次第にシュメール人の国々は勢力を弱めていきました。

そんな中、シュメール人の衰退とともに台頭してきたのが、セム語系のアッカド人です。とはいえ、アッカド人はシュメール人と密接な共生関係にあったといわれ、文字を持たなかったアッカド人は、シュメール人の楔形文字を利用していたようです。

メソポタミアと周辺地域の統一

紀元前24世紀頃からアッカド人が頭角を現します。サルゴン1世はアッカド帝国を建国し、メソポタミアの都市国家群を統一すると、さらに領土をシリア方面へと拡大しました。

シリアへ進出した理由は、メソポタミアで都市国家が形成されていたのと同じ頃に成立していたエジプト王朝との交易拠点を作るためだったと考えられます。地図を見れば、その意図がなんとなくつかめるでしょう。

しかし、もともと独立していた都市国家を無理やり統一した帝国だけに、各地で反乱が相次ぎます。

アッカドは、おそらく反乱を防ぐために、この時代に「王=神」を表す印章を使用するようになりました。いわゆる王権神格化です。

ところが、指導力強化のために王権神格化を進めた王(ナラム・シン)が死去すると、各地の反乱はむしろ増加し、統治力は確実に低下。各地の勢力が独立を始めます。ちなみにナラム・シン以降、「王=神」という統治手法は衰退を招いて天罰を受けたとされ、用いられなくなったようです。

こうして力を失ったアッカド帝国の滅亡後、メソポタミアでは南にウル第三王朝、北に後のアッシリア王国につながる勢力が台頭します。

ウル第三王朝は約100年という短命な王朝でしたが、世界最古の法典(ウル・ナンム法典)を残し、後世の王朝に大きな影響を与えました。一方、アッシリア王国は限られた地域ながらも、長期にわたって勢力を維持し続けます。

そしてウル第三王朝滅亡後、メソポタミア全土を統一したのがバビロニア王朝です(この時期もアッシリアは勢力を保持していました)。

アッカド帝国以降のメソポタミア情勢

アッカドに代わってメソポタミア全域を支配したバビロニア王朝は、セム語系のアモリ人によって建てられました。「目には目を、歯には歯を」でおなじみのハンムラビ法典とハンムラビ王はあまりにも有名です。

ハンムラビ法典は、ウル第三王朝が作ったウル・ナンム法典の影響を強く受けています。また、ハンムラビ王の功績として忘れてならないのが、大規模な運河建設による治水と灌漑です。

大規模な治水・灌漑工事の後は、安全な地域が増えて人口が増加し、文明は繁栄します。しかし、文明が栄えて富が蓄積されると、それを目当てに周辺民族の侵入と移住が相次ぎ、バビロニア王朝は衰退への道をたどりました。

そんな中、アナトリア半島で台頭したインド・ヨーロッパ語族のヒッタイトが、それまで歴史上使われていなかった鉄製武器を用いて勢力を拡大していきます。

鉄製武器を駆使するヒッタイトは他国を上回る軍事力を持ち、衰退しつつあるとはいえ豊かな大地に君臨するバビロニア王朝を滅ぼし、その北部を支配下に置きました。エジプトにも侵攻し、一時はシリアの一部を支配したともいわれています。

ただしこの地域の勢力は、昔からの傾向として異民族の侵入を受けやすく、国家の興亡が非常に激しいものでした。ヒッタイトも例外ではなく、次第にメソポタミア北部の支配域を縮小させていきます。縮小した旧ヒッタイト領を掌握したのがミタンニ王国です。

ミタンニ王国はフルリ人によって建てられ、当初はエジプトやヒッタイトと婚姻関係を結ぶなど、友好関係を築いていました。ところが紀元前14世紀、王家内部の対立に加えてヒッタイトとの抗争により衰退し、ヒッタイトに従属することになります。

ミタンニ王国がヒッタイトに従属したことで、これまでミタンニに属していたアッシリア王国は独立を果たし、両国の関係は逆転しました。最終的には異民族(=海の民)の侵入により、ヒッタイトとアッシリア王国はともに滅亡への道をたどり、先に幕を閉じたのはヒッタイトでした。

さらに紀元前15~14世紀頃には、パレスティナ・シリア・アナトリアに多数の王国がひしめき合っていました。それらの王国が存在した地域こそ、後にアッシリア王国の支配領域となっていくのです。

メソポタミアに広がった文化と文明

まずは、古代メソポタミアで統治の手段として用いられた宗教から見ていきましょう。

メソポタミアの宗教は多神教の世界だったといわれますが、崇拝される神々は民族の交代とともに変化していきました。王を神として扱う手法は初期のメソポタミアで見られますが、ナラム・シン以降はほとんど姿を消します。むしろ、神々の声に耳を傾ける形式の信仰が主流だったようです。

シュメール人が始めた楔形文字は、その後メソポタミアを統一した多くの王朝に受け継がれ、広い地域で使用されました。

楔形文字は表語文字(中国語のように一字一字に意味がある文字)です。言語が違っても、楔形文字を粘土板に刻んで記録すればよかったため、奴隷の数、家畜の数、物資の数などの記録が数多く残されています。

さらにこの地域では、暦・数学・農学など、実用的な学問が発達しました。天文・暦法・農学は、文明の基盤である農耕や牧畜を効率的に行うために発展したと考えられますし、数学はそれらの学問をより正確にするために進化したのかもしれません。これらの学問を支えていたのが六十進法です。

指で数えるのに便利な十進法ではなく、なぜ六十進法が生まれたのかについては諸説あります。

  • メソポタミアで神として崇拝された惑星のうち、木星や土星の周期に由来するという説
  • 10本の指と、月の満ち欠け(満月から満月、または新月から新月)を基準とした1年12か月との最小公倍数が60になるからという説

などが挙げられます。メソポタミアでは月の満ち欠けに基づく太陰暦をもとに暦が定められていたため、後者の説のほうが有力だと考えられています。