古代の歴史

敵は味方の4倍——臆病な将軍は部下を見捨てて逃げたが、彼らは勝利した

敵は味方の4倍——臆病な将軍は部下を見捨てて逃げたが、彼らは勝利した

エーケレンの戦いは、人類史上の「第二次世界大戦」とも称されるスペイン継承戦争において、最も知られていないながらも最も興味深い戦闘の一つである。兵力で圧倒する多数が少数を殲滅する――論理的にはそう結論づけられるはずの戦いだった。しかし、現実はそうならなかった。

スペイン継承戦争の背景

戦争が勃発したのは1700年のことだ。傲慢なフランス王ルイ14世は、スペイン王の死後、自らの孫をスペイン王座に就かせ、スペインを実質的にフランスの支配下に置こうとした。これは事実上、西欧全体を支配しうる超強力な同盟の誕生を意味した。

この危機に対抗すべく、イングランド、オーストリア、オランダ、プロイセンなどの諸国が対仏同盟を結成した。そして最も重要な戦域となったのがフランドル地方である。

両軍の配置

1703年5月、当時マールバラ公ジョン・チャーチルとして知られたイングランドの名将は、現在のベルギーに位置するオステンドの占領を決意し、戦力をそこへ集中させた。その結果、広範な周辺地域にはわずかな掩護部隊しか残されていなかった。

アントウェルペンの北約7キロ、エーケレンには、オランダのヤコブ・ファン・オブダム将軍率いる約10,693名の部隊が陣を敷いていた。副将格には、同じくオランダ出身のフレデリック・ヨハン・ファン・スランゲンブルク中将がいた。

一方、フランス軍はこの小規模なオランダ部隊を察知していた。ヴィルロワ元帥は攻撃を決意する。彼の指揮下にはフランス・スペイン両軍合わせて40,000名がおり、スペイン軍はベドマル侯爵が率いていた。

戦闘の開始

1703年6月30日早朝、フランス軍が戦場に到着した。ヴィルロワは、相手の小規模な戦力を目にすると、包囲して殲滅することを決意した。まず竜騎兵師団に命じ、オランダ軍の南方へ回り込ませて退路を断った。

同時に、残りの部隊が正面と側面からオランダ軍を包囲した。罠だと悟ったオランダ軍は脱出を図った。オブダムは騎兵に包囲網の突破を命じたが、すでに手遅れだった。小さな部隊の周囲には「鉄の輪」が完成していたのである。

内線作戦による粘り強い防衛

オランダ軍が撃退されると、フランス・スペイン連合軍が総攻撃を仕掛けた。しかし、まったく成功しなかった。常に内線を機動し続けた少数のオランダ軍は、四角形の戦線のうち脅威にさらされる区画へ、つねに十分な戦力を振り向けることができたのだ。

また、オランダ軍が用いた小隊ごとの交互射撃(プラトゥーン・ファイア)も重要な役割を果たした。だが戦闘は長引き、弾薬は底をつきかけていた。それでもオランダ軍は銃剣で戦い続けた。

指揮官の逃走

ところが、新たな問題が発生した。オブダム将軍が忽然と姿を消したのである。何が起きたのか? 実はオブダムは完全に勇気を失い、フランス軍の軍服を着ると、戦い続ける部下たちを見捨てて、30人の従者とともに逃走を遂げたのだ。

帰還した彼はさらに報告書を作成し、自軍が多数の敵によって壊滅したと宣言した。しかし、あらゆる論理に反して、彼が指揮していた部隊は壊滅していなかった。スランゲンブルク中将は最後まで勇気を失わず、指揮を引き継ぐと、包囲網突破の新たな試みを決断したのである。

包囲網の突破

オランダ軍が突破口として選んだのは、オルデレン村だった。彼らはフランス軍が攻撃を予想していない灌漑用水路や小川を抜け、絶望的な覚悟を胸に銃剣突撃を敢行した。村内での白兵戦は特に凄惨を極めたが、他のフランス・スペイン部隊が背後を突くための移動に手間取ったこともあり、オランダ軍はついに脱出に成功した。

戦闘の結果

こうしてオランダ軍の8,000名以上が救出された。「勝利」を主張したフランス軍の損害は約3,000名に達した。敗北したはずのオランダ軍は、フランス軍の大砲1門と17本の軍旗・旗幟を鹵獲していたのである。

損害の詳細は次の通りだ。フランス軍は戦死1,200名、負傷同数、行方不明多数。オランダ軍は戦死700名、負傷1,000名、捕虜700名。当然のことながら、オブダムは軍から追放された。しかし、彼が受けるべき厳正な懲罰が科されることはなかった。

エーケレンの戦いは、指揮官の資質が戦局を左右しうることを如実に示した歴史的戦例として記憶されている。臆病さが部部隊を裏切った一方で、冷静な判断と不屈の胆力こそが、8,000名の命と名誉ある撤退を実現したのである。