古代の歴史

117年前の惨劇――日露戦争サンデプー会戦、指揮官の失策が生んだロシア軍の敗北

117年前の惨劇――日露戦争サンデプー会戦、指揮官の失策が生んだロシア軍の敗北

サンデプー(黒溝台)会戦は、1904年から05年にかけて戦われた日露戦争における最も重要な戦闘の一つである。満洲の奉天(現・瀋陽)近郊にある同名の村をめぐって展開されたこの戦いは、数的に劣勢の日本軍に対しロシア軍が戦術的敗北を喫した沙河会戦の後に発生した。以降、両軍は長大な正面で対峙することとなった。

日本軍の配置とロシア軍の思惑

日本軍は第1・第2・第4軍を奉天の正面に展開させていたが、特に厳しい満洲の冬がすでに訪れており、新たな大規模な衝突は想定していなかった。

一方、ロシア軍はこの小休止を利用して追加兵力を戦域へ送り込んだ。さらに日本軍側も、1905年1月2日の旅順要塞陥落により第3軍を遊離させることに成功した。

旅順の陥落は、ロシア軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将に深刻な危機感を抱かせた。彼は翌年の総反攻を見据え、日本軍第3軍が本格参戦する前に、露出した日本軍の左翼を叩くことを決意したのである。

ロシア軍は右翼に、スウェーデン系フィンランド出身のオスカル・グリッペンベルク将軍率いる第2満洲軍を配置した。同軍は第8軍団、第1シベリア軍団に加え、独立歩兵師団2個と有力な騎兵部隊を有していた。

しかし第2満洲軍司令官グリッペンベルクは、反攻全般について、また自軍に課された役割について決して楽観してはいなかった。彼は総司令官の計画に賛同したものの、条件として自軍の攻撃が他のロシア諸軍と連携して実施されることを要求し、これを認めさせた。

第一の過ち――作戦計画の漏洩

ところが、情報保全はロシア軍の得意分野ではなかった。グリッペンベルクによるものとされる攻撃計画は漏洩し、パリで発行されるフランスの有力紙に掲載され、そこから全世界へ伝わってしまったのである。当然ながら、日本軍は可能な限りの備えを整えることとなった。

第二の過ち――冬季騎兵奇襲の失敗

それだけでも十分なはずだったが、クロパトキンはさらに第二の過ちを犯した。ミステンコ将軍指揮下の騎兵軍団に対し、日本軍が補給基地へ転用していた戦略的要衝・牛庄駅の占領を命じたのである。満洲の冬は大規模な騎兵機動には不向きであり、補給の準備すら整えていない状況ではなおさらであった。

こうしてロシア騎兵が目標地点へ到達するまでに6日間を要した。到着した頃には、日本軍はすでにその動きを察知して守備兵力を増強しており、ロシア軍の三度の攻撃はすべて失敗に終わった。窮地に立たされた騎兵部隊は、真冬の中をさらに6日間行軍して退却せざるを得なかった。

致命的な失策の連鎖

それでも懲りないクロパトキンは、計画を一切変更することなく、1月19日に第2満洲軍へ攻撃を下令した。投入兵力は75,000人。これに対峙したのは、優れた戦術家でありながら単独行動を好む一匹狼としても知られた奥保鞏(おく・やすかた)大将率いる日本軍第2軍40,000人であった。

第2満洲軍は1905年1月25日に攻撃を開始した。第1シベリア軍団は黒溝台村を攻略したものの、甚大な損害を受けた。一方、サンデプー村の占領を命じられていたロシア第14師団は、第1シベリア軍団との連携を欠き、なんと1日遅れの1月26日に攻撃を開始。しかも攻撃先はサンデプー村ではなく、日本軍第5師団が全面展開していた隣接の村だったのである。

この結果、第14師団は壊滅的な損害を被った。さらに事態を悪化させたのが、グリッペンベルクがクロパトキンへ「サンデプーを占領した」と誤報したことである。同時に彼は、状況を把握しないまま1月27日に部隊へ休息を命じた。ところが休息地として指定された地域は未だ日本軍の手中にあり、為す術を失った第1シベリア軍団長は、やむなく攻撃を下令。この攻撃は不幸な第2満洲軍の損害にさらに6,000人という犠牲を上乗せしただけだった。

1月28日になり、ようやくグリッゲンベルクはサンデプーが未占領であること、そして自軍の正面が二分されていることを悟り、攻撃続行を決意する。しかし今度はクロパトキンの番だった。ロシア軍が依然数的優位を保っていたにもかかわらず、彼は攻撃停止と退却を命じたのである。

その間、第1シベリア軍団長スタッケルベルク将軍は上官の命令を無視してサンデプーを攻撃し、騎兵の支援を受けて村落の一部を占領することに成功した。しかしクロパトキンは、この「神聖なる不服従」(グデーリアンの言葉によれば)を活かすどころか、スタッケルベルクの指揮権を剥奪してしまう。皮肉にも第2満洲軍は退却を開始し、日本軍は即座に反撃して失地をすべて回復した。

敗北の代償

グリッペンベルクはクロパトキンによって解任された。だが帰国後、彼はインタビューで敗北の責任をクロパトキンに押しつけ、この主張を長期にわたり展開し続けた。スタッケルベルクは正式に反抗行為のかどで告発されたものの、処罰されるどころか、逆に勲章を授与されている。

一連の愚行は、ロシア軍に甚大な血の代償をもたらした。第2満洲軍の損害は死傷者・捕虜合わせて少なくとも12,000人、資料によっては20,000人に達するとされる。日本軍の損害は戦死約2,000人、負傷約9,000人であった。

この敗北はロシア軍と国民の士気に深刻な打撃を与えた。兵士たちは、勝利を収めていたはずなのに退却を命じられた理由を最後まで理解できず、指導部の無能さを痛感することになったのである。

117年前の惨劇――日露戦争サンデプー会戦、指揮官の失策が生んだロシア軍の敗北