結論:アテネ帝国は臣民から人気がなかった
いいえ、アテネ帝国はその支配下に置かれた諸ポリス(臣民)の間で人気があるとは言えませんでした。確かにアテネ本国では民主政が発達し、市民は高度な自由と平等を享受していました。しかし、それはあくまでアテネ市民だけに与えられた特権であり、帝国の構成員である従属諸都市の人々には及ばなかったのです。
「民主国家」と「寡頭制的帝国」という矛盾
興味深いことに、アテネ帝国の統治構造は、本国の民主政とは対照的に、宗主国アテネが一方的に権力を握る寡頭制的なものでした。ペルシャ戦争後に結成されたデロス同盟は、当初は各ポリスが対等な立場で参加する自治的な同盟でしたが、次第にアテネの覇権が強まり、同盟諸国は事実上の従属国へと転落していきました。
重い貢納(フォロス)の負担
アテネは同盟諸国に対して「フォロス」と呼ばれる貢納を課しました。紀元前454年にデロスに置かれていた同盟の金庫がアテネへ移されると、この資金は艦隊の維持だけでなく、パルテノン神殿の建設といったアテネ自身の公共事業にも流用されるようになり、同盟諸国から強い不満を招きました。
内政干渉と同化政策
さらにアテネは、従属諸都市の内政にしばしば介入しました。親アテネ的な民主派政権の擁立、アテネ式の法制度や貨幣・度量衡の導入の強要、重要拠点へのクレルーキ(アテネ人入植者)の派遣などにより、諸都市の自治は大きく制限されました。現地の人々にとって、アテネ人は自らを二級市民のように扱う支配者に映ったのです。
反乱に対する容赦ない武力弾圧
離反を試みる都市に対しては、アテネは容赦なく軍事力を行使しました。紀元前440年のサモスの反乱や紀元前427年のミュティレネ(レスボス島)の反乱は徹底的に鎮圧され、後者の際には住民の大量処刑まで検討されたほどです。また紀元前416年には中立のメロス島を攻め落とし、成人男性を殺害、女性や子供を奴隷として売り払うという過酷な仕打ちを行いました。
まとめ
このように、アテネ帝国は「民主的な宗主国」という顔を持つ一方で、臣民にとっては重税と内政干渉、そして武力による抑圧をもたらす存在でした。ペロポネソス戦争の終盤、多くの従属都市がアテネを見限ってスパルタ側についたことも、こうした不満の大きさを物語っています。アテネ帝国が臣民の間で人気を得られなかったのは、ある意味で必然だったと言えるでしょう。