考古学的発見

古代工学の傑作「エウパリノスのトンネル」——3年間の修復を経て全線一般公開へ

古代工学の至宝の一つ、ギリシャ・サモス島のエウパリノス水路トンネルが、3年に及ぶ修復工事と照明設備の整備を終え、ついに全線で一般公開された。

古代工学の傑作「エウパリノスのトンネル」——3年間の修復を経て全線一般公開へ

ポリクラテスのサモス——繁栄と「水」という課題

紀元前6世紀半ばのサモスは、ヘラス世界において文化面での業績により高い名声を築いた豊かな都市だった。僭主ポリクラテスの統治下で、エーゲ海で最強の都市国家へと発展を遂げる。交易と航海術、そして軍事力が富をもたらしたが、ただ一つ欠けていたものがあった。それは市街への安定した飲料水の供給である。

そこでポリクラテスは、港湾拡張なども手がけた技術者エウパリノス(メガラ出身)に対し、アンペロス山(カストロ山とも呼ばれる)の反対側にあるアギアデ泉からピタゴレイオン(古代サモスの都市と港の遺跡群に今日付けられている名称)へ水を導くトンネルの建設を命じた。

泉は山の西端に位置していたため、トンネルは山を貫通して城壁まで到達する必要があった。

なぜ地下だったのか

水路が地下に敷設されなければならなかった理由は明快だ。ポリクラテスは、もし地上に水路を作れば、敵がそれを断ち切ることで街を降伏に追い込まれかねないと恐れたのである。山への入り口を隠すことで、少なくとも敵の企みを実行しにくくしようとしたのだ。

古代工学の傑作「エウパリノスのトンネル」——3年間の修復を経て全線一般公開へ

両側掘削という偉業

建設には8〜10年を要したと推定されるこのトンネルは、全長1,036メートル。歴史上確認できる限り、両端から掘り進めて山中で貫通させた例としては二番目とされる。第一号は紀元前701年頃に建設されたエルサレムの「ヒゼキヤのトンネル」で、こちらも現在見学が可能だ。

ただし、ユダヤ人たちの掘削は系統的な手法に基づくものではなく、方向の誤差とその修正の跡が随所に残っている。対照的に、綿密で経験豊富な技術者エウパリノスは、両端を見事に一致させる独創的な解決策を見出した。

完成からおよそ100年後にこれを実際に訪れたとみられる歴史家ヘロドトスは、著書『歴史』の中でこのトンネルに言及している。また、当時なお島内に居住していたはずのサモス出身者ピュタゴラスの関与も指摘されてきたが、裏付ける証拠はない。

エウパリノスの合流方法

エウパリノスはまず両掘削面の予想合流点を計算し、一方の坑道を左へ、もう一方を右へ(地図上では同じ方向へ)と進路を変更させた。こうすれば、仮に平行にずれて一定の距離が生じていても、必ず一点で収束するようになる。

次に残されたのが深さの問題だった。片方だけが深すぎて交差しない可能性があったため、彼は両坑道の断面高さを次のように調整した。北側の坑道は床面を水平に保ちながら天井を徐々に高くし、南側では逆に天井線を水平に保ちつつ床面を徐々に下げていく。こうして両坑道は計画通りに出会うまで断面を広げ続けた。

興味深いことに、近代の調査によれば、この高さ調整は実は必要なかった可能性が高い。両坑道の方向精度にはほとんど誤差がなかったのである。

古代工学の傑作「エウパリノスのトンネル」——3年間の修復を経て全線一般公開へ

全体構成——三つの区間

この事業は大きく三つの区間から成る。

  • 泉から山の北斜面まで続く約900メートルの導水部
  • 山頂から約180メートル下を貫く全長1,036メートルのエウパリノストンネル本体
  • トンネル出口から旧城壁まで延びる約500メートルの送水管

山側の入口は隠されており、高さ1.90メートル×幅63センチの岩盤開口部から地下画廊へ入る構造で、その底部には複数の立坑と水槽が設けられ、高さ1.50メートルのトンネルが始まっていた。坑内では63メートルごとに、番号とその区間を担当した人物の名を刻んだ標識が残されている。

テラコッタ製の水路

トンネルの底部にはテラコッタ製の水路が南出口まで敷設され、そこから陶管が城壁へと延びていた。城壁付近からは複数の水路に分岐して各所の噴水へ給水していたが、その噴水の所在は今なお考古学者によって発見されていない。

トンネル自体にはほぼ勾配がなく、出入口はいずれも海抜約55メートルの同じ高さにある。一方、内部の水路は入口で約4メートル、出口では8.9メートルの深さに達する。5,000本の素焼きパイプを据え付けるために、約12,500トンの石灰岩が掘り出されたと推定されている。

古代工学の傑作「エウパリノスのトンネル」——3年間の修復を経て全線一般公開へ

当時としては途方もないプロジェクト

この事業は当時としてはあまりに壮大であり、たちまち大きな名声を博した。忘れてはならないのは、当時のギリシャ人には羅針盤も測量機器も存在せず、数学の最初の体系的文献(エウクレイデスの『原論』)が著されるのは、なんと200年後だという点である。

1,100年間水を運び続けた水道

この水道は紀元後5世紀に使われなくなるまで、約1,100年にわたり途切れることなく機能し続けた。内部からはローマ時代の遺物が出土しており、ローマ人も利用したことを示唆している。さらにトンネル中央部付近にはビザンツ時代の小さな祭壇が残り、たび重なる襲撃や攻撃の中でサモス住民の避難場所として用いられたことを物語っている。

再発見から現代へ

トルコ支配の時代には忘れ去られていたが、19世紀末に再び光を浴びることになる。1853年、フランスの考古学者ヴィクトール・ゲランが地下導水路の北端部分を部分的に発掘したが、トンネル内部へは足を踏み入れなかった。1882年には南半分、北部導水路、南部導水路の一部が整備され、現在入口として使われている小さな構造物が造られた。

1883年にはドイツ考古学研究所のエルンスト・ファブリキウスがトンネルを探索し、地形図付きで初めて詳細な記述を発表した。

再び発掘が行われるまでには、実に一世紀を要した。20世紀70年代になりドイツ考古学研究所が発掘を再開し、ギリシャ政府は南側入口を開削するとともに、観光客が安全に見学できるよう坑内の水路を覆った。以来、安全上の理由から、公開されていたのは最初の130メートル区間のみだった。

今回、3年間の工事を経てトンネル全体が修復され、ついに全区间が一般に開放されたのである。