ササン朝は西暦226年、アルダシール1世によって建国されました。彼は打ち破ったパルティア帝国の首都であったクテシフォンを拠点としてペルシアを統治することになります。
セレウキアの郊外から帝国の首都へ
実はクテシフォンの起源は、アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)の一人セレウコス1世ニカトルが紀元前312年にティグリス川西岸に建設した古代都市セレウキアの一地区でした。現在のイラクのほぼ中央に位置するこの都市は大きく発展し、紀元前221年頃には川を越えて東岸にも新しい街区が誕生します。紀元前141年にパルティア人がこの地を征服すると、東岸のこの街区(すでに「クテシフォン」と呼ばれていました)を新たな首都と定めたのです。

こうしてセレウキア=クテシフォンは、パルティア人、ペルシア人、バビロニア人、ギリシャ人、ユダヤ人、アッシリア人、アラブ人らが共存する国際色豊かな文化の坩堝となりました。ヘレニズム期およびローマ時代を通じて、世界有数の規模を誇る都市だったのです。
クテシフォンはその後、パルティアとローマの間で何度も支配者が入れ替わりました。226年にササン朝ペルシアがパルティア帝国に終止符を打つと、ここを首都と定めますが、以後もササン朝とローマ、のちにはビザンツ帝国との間で戦闘、包囲、征服が繰り返されました。363年の包囲戦では、皇帝ユリアヌス自身がその城壁の前で命を落としています。

最盛期を築いたホスロー1世
651年まで続いたササン朝の歴代王の中で最も名高いのは、ホスロー1世です。彼は首都に新たな壮麗な建造物の建設を積極的に推進し、歴代のどの王よりも都を美しく飾りました。在位した531年から579年の間に、クテシフォンは最大の栄華を迎えます。
637年、ムスリム(イスラム勢力)がクテシフォン(彼らは「マダーイン」と呼びました)を征服します。そして761年、北西わずか24キロの地点にバグダードが建設されると、街は次第に人口を失い、やがて完全に放棄されました。今日、目に見える形で残っているのは、ターゲ・カスラー(クテシフォンの大アーチ、別名ターク・イ・キスラー)だけです。

世界最大の無筋レンガ造りヴォールト
遺跡は現代イラクのサルマン・パークの近くにあります。かつての帝宮の遺構で、建設は540年に始まったとされますが、3世紀のサプール1世(ササン朝第2代王)の時代に着工されたとする説もあります。
中央の広間を覆う印象的な放物線状のアーチは、仮設の足場(支保工)を使わずに建設されたもので、世界最大の無筋レンガ造りヴォールトとされています。高さは37メートルに達し、その下にはササン朝の玉座の間があったと考えられています。間口は26メートル、奥行きは50メートル。アーチ上部の厚さは1メートル、基部の壁は7メートルに及びます。
アーチの下、外側に開けた部分はおそらく謁見の間で、ササン朝の王が諸外国からの使節を迎えた場所でしょう。しかしアラブ人の支配下ではモスクとして利用され、10世紀にはそのレンガがバグダードのタージ宮殿の建設資材として持ち去られるまでになりました。
広間の内部はモザイクで装飾されていたとみられ、付近からはその断片が発見されています。アラブの歴史家カズウィーニーは、玉座の間の壁には黄色い馬に乗るホスローの姿が描かれていたと記録しています。
7世紀前半に著述を行い、ペルシア史研究の主要な史料の一つとされるビザンツの歴史家テオフィラクト・シモカッタも、この壮麗な宮殿について言及しています。

洪水と再建、そして再びの崩落
残念ながら、建物の大部分は1888年の大洪水によって崩壊してしまいました。1980年代からイラク政府による再建事業が始まり、崩落した北翼が復元され、2017年に工事は完了しました。ところが2019年3月7日、再び一部が崩落する被害を受けています。
興味深いことに、1940年、当時バグダード近郊でイギリス空軍(RAF)のパイロット訓練を受けていた作家ロアルド・ダールが、飛行中にこの大アーチの写真を撮影し、その写真は賞を獲得しました。

後世の建築への影響
クテシフォンの大アーチは、後世の数多くの建築物に影響を与えました。実際、現代の逆懸垂線アーチは「クテシフォン・アーチ」と呼ばれています。このアーチの特異性は、それが自立的に荷重を支える構造にある点です。アーチの各点に生じる力は垂直成分と圧縮成分に分散され、基礎へと伝えられます。下部が基礎に達する部分を除けば、側方の補助支柱を一切必要としないのです。