考古学的発見

約80年ごとに自らの村を焼き払った?謎めいたヨーロッパ先史文化「焼失家屋ホライズン」

新石器時代——石器時代の最終段階——をひとまとまりの時期として捉えがちだが、農耕と牧畜の出現は定住生活をもたらし、そこから最初の農耕社会が誕生した以上、多様化は避けられなかった。実際、地球上の各地では互いに無関係な新石器文化が同時多発的に生まれ、やがてそれぞれが分化・進化していった。ヨーロッパで最も特異なもののひとつが、「焼失家屋ホライズン(Burned House Horizon)」と呼ばれる文化圏である。その名が示すとおり、この文化圏を特徴づけるのは家屋の焼失にある。

60〜80年周期で繰り返された「火入れ」の習慣

この広大な地域に暮らす人々は、およそ60年から80年ごとという周期で、自分たちの住まいに火を放つという独特の習慣を持っていた。考古学的記録がこの奇妙な事実を裏付けている。出土した遺構が火の熱によってガラス質化(ビトリファクション)していたのだ。当時の建物は、小枝を編んだパネル(編壁)に泥——正確には湿った土、粘土、糞、藁の混合物——を塗る工法で造られていた。これはアメリカ大陸で「バハレケ」と呼ばれる工法と同等のもので、アフリカやアナトリアなど他の地域にも見られる。

約80年ごとに自らの村を焼き払った?謎めいたヨーロッパ先史文化「焼失家屋ホライズン」

バルカンから黒海北岸へ、4500年に及ぶ繁栄

焼失家屋ホライズンは、バルカン半島からウクライナとロシアの国境まで、黒海北岸を囲むように南東ヨーロッパ一帯に広がっていた。モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、ハンガリー、スロヴァキア、ブルガリア、ルーマニア、モルドヴァ、ウクライナといった国々が含まれる。年代は紀元前6500年頃から紀元前2000年頃までの4500年に及ぶため、新石器時代に属するだけでなく、銅器時代さらには青銅器時代への移行期にもまたがっている。

これらの地域(現在の国境とは一致しない)では、焼失家屋ホライズンに含めうる多彩な文化が興った。ケレシュ文化、スタルチェヴォ文化、ドゥデシュティ文化、ヴィンチャ文化、ボイアン文化、ティサ文化、グメルニツァ=カラノヴォ文化、ブバニ=サルクタ=クリヴォドル文化のほか、セカールハートのように線帯文土器文化に属する集団もある。

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ククテニ=トリポリエ文化——ヨーロッパ最古の都市文明

中でも特筆すべきはククテニ文化(ククテニ=トリポリエ文化)である。焼失家屋ホライズンの典型例であり、すべての中で最も新しいばかりでなく、1500年以上もの間火入れの伝統が続けられ、その全段階が記録に残っている。

この文化はカルパティア山脈からドニエストル川、ドニエプル川流域にかけて、現在のルーマニア北東部、ウクライナ西部、モルドヴァ全域にあたる約35万平方キロメートルの領域で、紀元前4500年頃から紀元前3000年頃にかけて栄えた。名前の由来となった主遺跡はルーマニア北東部ヤシ県に位置し、ウクライナ・キーウ州のトリポリエ遺跡も有名だ。確認されているだけでも大小2000の遺跡がある。最初の発見は1884年で、本格的な発掘は20世紀に入ってから始まった。当初はルーマニアが中心と考えられていたが、後に文化の真の中心はモルドヴァに位置すると見なされるようになった。

ククテニ文化はドナウ流域の線帯文土器文化から発展し、一般にヨーロッパ初の都市的定住の事例とされる(初期の都市国家と呼ぶ研究者さえいる)。集落は概して小規模で、互いに3〜4キロメートルほど離れていたが、発展段階では成長を遂げ、トリポリエでは4万人もの人口を抱えるに至った(ククテニの集落はやや小さく、4000人程度だった)。

集落は地形を自然の要塞として利用して築かれ、濠などの防衛施設も備えていた。内部の都市計画は放射状で、密集した数十棟の建物——隣接して一体化していることさえある——が並ぶ狭い街路が続き、職人の街区も存在した。生活は基本的に共同体単位で行われ、階層性は弱く、政治的エリートもいなかった。経済はほぼ自給自足で、銅が流入し始めるまでは交易もほとんどなかった。つまり狩猟採集民と、青銅器時代に花開く文明との中間的な存在だったのである。

約80年ごとに自らの村を焼き払った?謎めいたヨーロッパ先史文化「焼失家屋ホライズン」

高度な技術力を誇った人々

穀物が栽培され、家畜も飼育されていた(馬を含むかどうかは不明)。出土した玩具から車輪を知っていたことがわかるが、荷車は見つかっていない。一方で塩の生産を行っており、スタルチェヴォの人々はルーマニアのモルドヴァ地方で、現存する最古の塩田と考えられるものを利用していた。驚くには当たらない。技術面で言えば、ククテニ人は当時世界で最も先進的な文化だった可能性があるからだ。洗練された陶芸を営み、道具や武器の製作には磨製石器、燧石、黒曜石、骨、木を用いていた。

副葬品、土偶(最も多いのは女性像)、神殿と特定された建造物から、彼らの宗教観や儀礼の一端をうかがい知ることができる。かつては「母なる女神を崇拝する母系制社会であり、後にインド・ヨーロッパ系侵略者がもたらした父権制にとって代わられた」と考えられていた。しかしこの説は今日激しく批判されており、当時の社会はもっと複雑だったと見られている。

約80年ごとに自らの村を焼き払った?謎めいたヨーロッパ先史文化「焼失家屋ホライズン」

なぜ家屋は焼かれたのか——謎を巡る諸説

焼失家屋ホライズン全般、そしてククテニ=トリポリエ文化を際立たせるのが、家屋に周期的に火を放つ伝統だ。この「周期性」こそが重要で、偶然の火災ではないことを示唆している。発掘された各層がそれを物語っている。さらに奇妙なのは、一棟ではなく集落全体の建物が焼かれていた点だ。町が放棄されたのか、再建されただけなのかは定かでなく、数多くの仮説が提唱されてきた。

偶然の火災説の崩壊

遺跡の研究が始まった20世紀前半には、すべてが不慮の事故、戦争の結果、あるいは消し止められなかった延焼(家屋は非常に近接して建てられ、可燃性素材でできていた)だと考えられていた。しかし一見もっともらしいこの説明は、南東ヨーロッパの異なる文化の集落が次々と発見され、いずれも同じ状況を呈することが判明すると崩れた。もっとも、形式や年代には差異があり、人骨が埋葬されたままのもの(強制の形跡なし)、より多くの家庭用品が残されたもの、初期新石器時代のもの、銅器時代のものなど様々である。

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こうした研究で注目されたのが、焼失した中に穀倉、つまり食料備蓄まで含まれていたという事実だ。一見すると不条理である。20世紀後半になると、同じ条件での火災再現実験の成果により、意図的な「儀礼の火」仮説が有力になった。台所からの出火を想定して実験したところ、30時間後には炎が植物性の屋根を完全に飲み込んだものの、壁にはほとんど影響がなく、ごく一部が焼き締まる程度だった(壁は粘土製だったことを思い出してほしい)。これは考古学者たちが発掘したガラス質化した遺構とは明らかに異なる結果だった。

実用目的を巡る大胆な仮説

では、なぜ焼いたのか。ロシアの考古学者エフゲニー・ユーリエヴィチ・クリチェフスキーは1940年代にかなり大胆な説を唱えた。粘土を焼き固めることで壁を補強し、防水性を高めようとしたのではないかというものだ。しかし、これでは内部に埋葬や所持品があった理由を説明できず、考古学的記録も建物が炎によって崩壊したことを示している。

約80年ごとに自らの村を焼き払った?謎めいたヨーロッパ先史文化「焼失家屋ホライズン」

1993年には、アメリカの考古学者ゲイリー・シャファーが論文を発表し、クリチェフスキーの説を再構成した。編壁と泥の家屋は脆いため、住民は時折それを焼き払い、熱で硬化した壁で建て直すために燃やしたのだという。シャファーはまさにククテニ=トリポリエで、高温によるガラス質化を実現するための可燃物(藁や木材)が家屋の周囲に積まれていた例を見出したという。

ひねりを加える者もいる。燻蒸のためだったという説だ。確かに強力ではあるが、過剰な害虫駆除方法と言えるだろう。別の可能性として指摘されたのは、空間確保のための解体だった。この文化の集落における土地の希少性に基づく考察だ。しかし考古学は再びこれを否定する。新しい家屋は以前の基礎と瓦礫の上に再建されていたからだ。

アニミズム的解釈——家の魂を解放する儀式

こうしてどの理論も焼失家屋文化の大きな謎を解決できず、精神世界に目を向けることになった。当時の人々の宗教がアニミズムだったと仮定すれば、あらゆる物体に魂が宿ると考えることになる。家も例外ではない。その「寿命」を迎えたとき——ここで再びシャファーが指摘した脆さに注目したい——意図的に火を放ち、魂を解放し、その真上に再建することで再生を促したのだろう。これなら、家財道具を残したまま焼かれた理由も、遺跡から大量の可燃物が見つかる理由も説明がつく。共同体全体がこの儀式に参加していたのだ。

約80年ごとに自らの村を焼き払った?謎めいたヨーロッパ先史文化「焼失家屋ホライズン」

文化の終焉を巡る二大仮説

謎はククテニ=トリポリエ文化の滅亡にも及ぶ。第一の可能性は、原インド・ヨーロッパ人の到来だ。具体的には、ポントス草原からドナウ渓谷へ侵入したクルガン(ヤムナ)文化の人々である。リトアニア出身の考古学者マリヤ・ギンブタスが擁護したこの説には、年代的な不一致という問題がある。ククテニ=トリポリエの方が古く、両文化の接触期間はせいぜい3世紀程度だったと考えられるからだ。

約80年ごとに自らの村を焼き払った?謎めいたヨーロッパ先史文化「焼失家屋ホライズン」

第二の仮説は気候変動だ。1997年以降、気候変動への関心の高まりとともに提案された。ブリット=セルナンダー理論を参照すると、最終氷期以降の寒冷化が、それまでのヨーロッパで最大級の干ばつを引き起こし、ククテニ=トリポリエ経済の基盤である農業を壊滅させたという。遊牧民であるクルガンの人々は厳しい環境によく適応していたため、彼らに吸収されていったのだろう。

つまり、疑問は多く、確かなことは少ない。結局のところ、これこそが先史時代というものなのである。