考古学的発見

フランク・カルバート――シュリーマンにトロイアのありかを教えた無名の考古学者

トロイアのありかをめぐる謎

今日なお、アナトリア半島北西部のヒサルリク遺跡がホメロスの描いたトロイアなのか、それとも全く別の都市――おそらくヒッタイト文献に登場するウィルシャ――なのか、断言できる者はいません。この遺跡から見つかった唯一の文字資料は、ルウィ語の銘文が刻まれた円筒印章だけです。しかしいずれにせよ、ハインリヒ・シュリーマンは1873年にここを発掘するにあたり、ホメロスが『イリアス』に描いた都市の遺構が必ず見つかると確信していました。

フランク・カルバート――シュリーマンにトロイアのありかを教えた無名の考古学者

シュリーマンより7年前、先駆者がいた

ところが、この着想を最初に得たのはシュリーマンではありませんでした。実に彼がこの地に足を踏み入れる7年前、もう一人の考古学者が同じ丘で、ごく小規模ながら発掘を行っていたのです。その男の名はフランク・カルバート。シュリーマンのトロイア発見に不可欠な役割を果たしたにもかかわらず、今ではほとんど忘れ去られています。

カルバートは1828年、イギリス人家庭の7人きょうだいの末っ子としてマルタに生まれました。兄の一人フレデリックはアナトリア勤務の領事館員で、1847年にアクジャ・コイという場所に8平方キロメートルを超える広大な農場を購入します。そしてその農場には、なんとヒサルリクの丘の一部も含まれていました。

これが偶然とは思えません。その約25年前、地質学者チャールズ・マクラーレンが『トロイア平原の地形に関する論考』を発表し、ホメロスのトロイアの所在地はヒサルリクの丘に違いないと指摘していたからです。

フランクは兄フレデリックの領事業務を補佐し、時に代理としてイギリス領事の職務も担いました。1874年からは、もう一人の兄ジェームズが退いたアメリカ合衆国領事代理の座も引き継いでいます。

フランク・カルバート――シュリーマンにトロイアのありかを教えた無名の考古学者

決定的な一言が歴史を変えた

外交官としての仕事の合間を縫って、カルバートは自家の土地で発掘を続け、ホメロスのトロイアを探し求めていました。1870年にアナトリアへ到着したシュリーマンは、当初こそ伝説の都はヒサルリクの南にあるピナルバシュの丘だと考えていました。しかし何も発見できず、諦めかけたその矢先の1873年、カルバートがこう持ちかけたのです。「一族の所有地にあるあの丘、ヒサルリクを掘ってみてはどうだろう」と。

実はカルバート自身もすでにそこで発掘経験がありましたが、青銅器時代の地層に届くほど深くまで掘り下げてはいなかったのです。シュリーマンはこの助言を受け入れ、その後の展開は歴史が証明しています。

フランク・カルバート――シュリーマンにトロイアのありかを教えた無名の考古学者

埋もれた功績と、今も続く帰還請求

フランク・カルバートは1908年にこの世を去りましたが、トロイア発見の功労者として公式に認められることは最後までありませんでした。シュリーマン自身も著作の中でカルバートの貢献を矮小化し、表立った言及をほぼ消し去ってしまいました。しかも、丘の所有権は東西に分かれており――西半分はオスマン政府、東半分はカルバート家のもの――シュリーマンの発見品の一部は、実はカルバート家の土地から出土していたのです。

このことを踏まえ、1996年以降、カルバート家の子孫たちは「自分たちに帰属するはずの遺物」の返還を求め続けていますが、いまだに実現していません。たとえば、シュリーマンが隠してベルリンへ送った儀礼用の石斧が、1890年にカルバート家の区画から出土していたことが分かっています。行方不明とされてきたこれらの斧は、1994年にモスクワのプーシキン美術館で突如姿を現しました。第二次世界大戦後に戦利品として持ち込まれたものと見られます。

一族の主張によれば、フランク・カルバートはすべての出土品とその位置を把握していたわけではなく、シュリーマンの記録自体にも疑わしい部分があるため、「カルバートと平等には分割されなかった」と信じられる他の宝物についても、返還を請求する権利があるというのです。