アドリア海の玄関口、ブリンディジのシンボル
イタリア半島の最南東部、アドリア海に面した港湾都市ブリンディジ。14世紀以来、この街は港にそびえる二本の双子の柱を紋章(エンブレム)として採用してきました。
これまでの記事では、アレクサンドリアのポンペイウスの柱やコンスタンティノープルのコンスタンティヌスの柱といった記念柱の事例を紹介してきました。しかし、ブリンディジの柱が特別であるのは、古代を通じて「双子の柱」が建てられたことが知られている唯一の例だからです。
しかもそれだけではありません。数多くの謎、仮説、伝説に包まれたこの柱は、今日でも解明されていない小さなミステリーなのです。さらに、片方の柱は1528年の大地震で倒壊し、その破片は倒れたまま1世紀以上もの間、地面に放置されていました(その後どうなったかは後述します)。

いつ、何のために建てられたのか?
柱がいつ建てられ、何のために建てられたのかは不明です。長い間、紀元前83年にローマの権力掌握のためブルンディシウム(ブリンディジ)に上陸したスッラの手になるものではないかと考えられてきました。
あるいは、トラヤヌス帝が、ベネウェントゥム(ベネヴェント)からブルンディシウムまでを結ぶウィア・トラヤナ最終区間の完成を祝って建てたのだという説もあります。この街道はアッピア街道の延長として、より短い経路でブリンディジに至る道路で、109年に建造されました。トラヤヌスはこの事業を記念してベネウェントゥムに凱旋門を建てたため、ブルンディシウムでも同様に柱を建て、道の終点を示したのだと考えられたのです。
ところが、柱頭の様式、建設に使われ再利用された大理石の多様性、そしてテラモネス(屋根や柱頭を支える男像柱、いわゆるアトラス像)といった神々の図像から判断すると、これらの柱はもっと後の時代、2世紀半ばから3世紀初めごろのものとみられるのです。発掘調査の結果は、さらに後の時代の建造を示唆しています。

灯台説と記念柱説
ブリンディジの港を見下ろす高台に位置し、港口との視覚的な関係を持つことから、「二本の柱の間に架けられた青銅の横梁の上に置かれた一種の灯台あるいは灯明台の支柱ではないか」という推測も生まれました。しかし研究者たちは、古代の灯台の形式の中にまったく前例がなく未知の形態であることから、この可能性を否定しています。
現在もっとも広く受け入れられている仮説は、これらが記念柱であり、おそらく古代末期には頂上に二体の青銅像が据えられていたというものです。残念ながら、その像が誰を表していたのか、何を記念したものだったのかに言及した史料は一切残っていません。
中には、ヘラクレスの柱を表しているのではないかと考える学者もいます(ヘラクレスはこの街の神話上の創建者とされているため)。興味深いことに、ヴェネツィア人は1172年頃、サンマルコ広場に翼のある獅子像と聖テオドーロ像を戴いた二本の双子の柱を建立しており、これはブリンディジの柱に着想を得たものだと伝えられています。

地震で倒壊した片方の柱の行方
前述のとおり、片方の柱は1528年11月20日の地震によって倒壊しました。破片は基壇の足元に散らばったまま1世紀以上放置されましたが、1657年、近郊の街レッチェの住民が、ナポリ王国を荒廃させた疫病から街を救ってくれた守護聖人サンテ・オロンツォへの記念碑建立の資材を求め、破片の譲渡を申し入れました。
ブリンディジ側は自街の倒壊した柱の破片を手放すことに反対しましたが、1659年11月2日、ナポリ副王は破片をレッチェへ送るよう命じます。建築家ジュゼッペ・ジンバロはこれらを使って新しい柱を組み上げ、修復・補修された柱頭(四人の女性像が表されている)までも活用し、その上にサンテ・オロンツォ像を載せました。この柱は1681年に落成し、現在もレッチェのサンテ・オロンツォ広場で見ることができます。

1937年には、ブリンディジ側が元の姿に復元するためにサンテ・オロンツォの柱の返還を求めました。しかし上級美術審議会は、学者グスターヴォ・ジョヴァンノニの報告を受け、「石材と柱頭は倒壊によって削り取られ改変されているため、返還は不可能である」と判断しました。
高さの違いと現代の保存・修復
レッチェの柱は全高29メートルに達する一方、今もブリンディジに立つローマ時代の柱は18.74メートルです。後者は第二次世界大戦中、保護措置として初めて解体されました。1996年にも周囲の広場で考古学発掘調査が行われるのに伴い再度解体され、その機会を利用して完全な修復が実施されました。
工事完了後の2002年、柱は元の場所に戻されました。ただし柱頭のみはコピーに交換され、オリジナルは現在、グラナフェイ=ネルヴェーニャ宮殿(ブリンディジのドゥオーモ通り沿い)の一室に展示されています。柱頭にはアカンサスの葉の間に交互に配されたアトラス像(テラモネス)、四柱の神々、八体のトリトンが彫刻されています。

解けない謎を残して
今日残っているのは一本の柱ともう一本の基壇だけですが、ブリンディジの柱は古代の双子の記念柱として知られる唯一の例であり続けています。ただ、何を記念したものなのかは、誰にも分かりません。
現存する柱の基壇には次のような銘文が刻まれています。ILLUSTRIS PIVS ACTIB. ATQ:REFVLGENS – PTOSPATHA LVPVS VRBEM HANC STRVXIT AB IMO – QVAM IMPERATORES MAGNIFICIQ:BENIGNI…(慈善の業績により輝かしく信心深き名士、ルポ・プロトスパタは、偉大で慈悲深い皇帝たちによる…この都市を根底から再建した)。ただしこれは中世の銘文で、おそらくサラセン人の征服後に9世紀に行われた都市再建を記念するものと思われます。

港から柱へと続く階段は「スカリナータ・ウィルジリアーナ(ウェルギリウスの階段)」と呼ばれ、1861年に造られました。この名は、広場の右側の民家の中に、詩人ウェルギリウスが紀元前19年に滞在し、生涯を閉じた家の遺構が残っていることに由来します。もしかすると、片方の柱の頂には彼の像が飾られていたのかもしれません。
参考文献
アプリアノス『内戦史』|Colonne Romane o Porto(Brindisiweb)|Le Colonne Romane di Brindisi(ブリンディジ県)|Wikipedia