都市は一般に水や肥沃な農地の近くに築かれるものであり、資源への近さが定住パターンを決めると、長い間考えられてきました。しかし、現在のメキシコ南部に位置する古代都市の事例を用いた新しい研究が、この常識に異議を唱えています。
研究チームによれば、この地域で1,000年以上にわたり最大の都市であったモンテ・アルバンは、特に優れた農地の近くには位置していませんでした。その代わりに、都市の創建当初から備えていたのは、防御に適した丘の上という立地と、人々を集落そのものへ、そしてその周辺へと引き寄せた、より集合的な統治形態でした。
「私たちは、モンテ・アルバンがなぜあの場所に建設されたのかを理解したかったのです」と、学術誌『Frontiers in Political Science』に掲載された研究の第一著者で、フィールド博物館の準キュレーターを務めるリンダ・ニコラス氏は述べています。

オアハカ盆地に君臨した大都市
モンテ・アルバンはメキシコ南部のオアハカ盆地に位置しています。紀元前500年に創建されると急速に発展し、1,300年もの間、この地域最大の都市であり続けました。これは先スペイン期のメソアメリカの都市の中でも際立って長い存続期間です。「私たちは40年間、オアハカ盆地で研究を続けてきました。私たちも同僚たちも、何がこれほど多くの人々をモンテ・アルバンとその周辺に引き付け、何がこの都市をこれほど長く存続させたのかを自問してきました。長年、いくつかの対立する仮説が提案されてきました」と、フィールド博物館のマッカーサー人類学キュレーターで研究共著者のゲイリー・ファイナマン氏は語ります。
モンテ・アルバンの急速な成長を説明する有力な仮説の一つは「強制」です。つまり、強力な支配者が人々に移住を命じたという考えです。もう一つの説明候補は、土地が農業に適していたため人々が自然に集まったというものです。この二つの説明の妥当性を検証するため、ニコラス氏とファイナマン氏は、モンテ・アルバンと周辺のオアハカ盆地の双方を対象とした数十年分の研究成果を精査しました。
農地の質は立地の理由ではなかった
モンテ・アルバンが農地の質ゆえに人を集めたのかを検証するため、研究者たちは盆地における現代の土地利用調査をもとに、水の利用可能性と安定性――この盆地での作物収量を左右する最重要要素――に基づいて土地を区分し、地図化しました。灌漑の行き届いた良質な土地は盆地内に不均等に分布しており、地域によって潜在収量には大きな差がありました。モンテ・アルバン以前の集落が生産性の高い地域に集中していたのに対し、モンテ・アルバンはそうではありませんでした。都市の創建時点では、都市自身にとっても周辺の集落にとっても、土地の質は定住地選択の決め手になっていなかったのです。
「リンダによる土地利用分析は、モンテ・アルバンが最も豊かな土地の近くになかったことを極めて明確に示しています。土地そのものを見ても、耕作にかかる労働を見ても、農業生産性ではモンテ・アルバンの立地を説明できません」とファイナマン氏は断言します。
発掘ではなく広域調査で全体像をつかむ
肥沃な土地説が成立しないことが明らかになったため、ファイナマン氏とニコラス氏は次に、人々が移住を強制された可能性を調べました。この部分の研究は、数十年にわたる考古学的踏査に基づいています。「1960年代、考古学者たちは遺物の収集と分類にとどまらず、古代社会について多様な問いを立て始めました。遺跡を発掘しても、得られるのはごく狭い範囲の情報だけであり、しかも発掘は破壊的で費用もかさみます」とニコラス氏は説明します。
「最初の都市がどう形成され、どれほど長く続いたのかという問いに答えるには、過去へ開かれた窓が狭い発掘だけでは不十分です。シカゴ市を知りたいとき、一軒の家、一つの街区、あるいは一つの地区を発掘しても、シカゴ川やミシガン湖との関わりの中での都心の成長も、北イリノイ以遠の広範な集落ネットワークとの関係も見えてきません。古代都市も同じことで、その興亡を周辺地域との比較で理解するには、よりマクロな視点が必要なのです」とファイナマン氏は語ります。
人々がどこに住み、定住パターンが時代とともにどう変化したかという全体像を得るため、ファイナマン氏とニコラス氏はリチャード・ブラントン氏、スティーブン・コワレフスキー氏と協力し、オアハカで世界有数の規模となる広域調査を実施しました。「体系的な調査では、航空写真と地図を頼りに盆地全域を歩きました。考古遺跡を見つけるたびに、何をどこで発見したかを記録し、占拠年代を特定するための採集を行いました。結果として私たちと同僚たちは、オアハカ盆地とその周辺で数千平方キロメートルをカバーすることになりました」とニコラス氏は振り返ります。この長年の踏査には、多くの研究者による主要遺跡での詳細な発掘調査も重ねられてきました。
テラス生活が育んだ高度な協力関係
踏査と発掘の両輪で得られた、モンテ・アルバンとその周辺の生活像は、長年にわたり新たな知見をもたらし続けました。「モンテ・アルバンをはじめとする先スペイン期オアハカの集落では、住民の大多数が、丘の斜面に造成された平坦なテラスに住んでいました。私たちや他の研究者による発掘からは、中庭を囲む複数の部屋からなる一戸建て住宅で暮らす、テラス生活の実態が見えてきました。各家は前面の擁壁を共有し、排水路が住居同士を仕切っていました」とファイナマン氏は言います。「人々は密集して暮らすだけでなく、世帯同士が非常に協力的である必要がありました。擁壁の一部が崩れたり、排水路が詰まったりすれば、皆で力を合わせて修理しなければならなかったからです」。
モンテ・アルバンの住民は経済的にも相互依存の関係にあり、厳しい農業環境の中で工芸品や食料を交換し合っていました。大規模な食料貯蔵施設は見つかっていないものの、都市住民が市場交換を行っていたことを示す痕跡があり、これが予測不能な降雨に対する地域の緩衝装置となっていた可能性があります。協力的な防衛と経済的機会こそが、初期のモンテ・アルバンへ遠方から人々を呼び寄せたのです。
公共広場が象徴する集合的統治
モンテ・アルバンの世帯間の緊密な協力は、都市全体の政治組織にもある程度反映されていました。「古典期マヤのようなより独裁的な社会と比べると、モンテ・アルバンはより集合的な統治形態を持っていたようです」とニコラス氏は指摘します。少数の者がすべての権力を握る専制的な社会では、その統治のあり方が建築にも表れ、壮大で豪華な宮殿や、権力者のための精巧な墓が造られるのが通例です。専制君主は自らの体制の「顔」となり、しばしば誇張的で個人を称える記念碑が建立されます。ところがモンテ・アルバンを特徴づけるのは、非居住用の公共建築物、神殿、そして広く開放された共有の大広場です。遺跡の長い歴史に比べ、支配者を描いた記念碑の数はごくわずかにとどまっています。
防御がモンテ・アルバンの創建と立地の鍵であったことは確かですが、農業の見通しがやや不安定で、住居の維持には近隣との協力が不可欠で、居住区画も過密だったこの丘の上の場所へ、最初の入植者が無理やり移住させられた証拠はありません。むしろ健康状態に関する指標は、モンテ・アルバンの住民が他の先スペイン期都市の住民より総じて良好な生活を送っていたことを示しており、都市に確立された制度が人々の福祉を支え、困難にもかかわらず遠方からの移住者を惹きつけ続けたのです。
人々が強制されたわけでも、豊かな農地を求めて来たわけでもないとすれば、疑問は残ります。なぜモンテ・アルバンは急速に成長し、これほど長く大きく重要であり続けたのでしょうか?
「私たちには、協力を基盤とする枠組みがあると考えています」とニコラス氏は言います。マーガレット・レビ氏やリチャード・ブラントン氏ら先行研究者の成果を踏まえ、ファイナマン氏は次のように仮説を立てます。「これは権力を持つ者と持たぬ者の間の一種の相互関係です。権力者は防衛を調整し、市場交換の組織化を後押しし、共同体の結束を深める儀礼活動を行ったのでしょう。一方、都市人口の大多数は集落を支える食料や諸々の財を生産し、税を通じて政府を支えました。服従を基盤とした、協働のプロセスだったのです」。
さらにファイナマン氏は、人々をモンテ・アルバンへ引き寄せた階層間の協力関係の手がかりが、都市の建築にも刻まれていると指摘します。「創建当初から、人々が集まり、少なくとも時には自らの声を上げられる大きな中央広場があったのです。人々は防衛と経済的機会を求めて移り住んだかもしれません。しかし同時に、そうした新しい制度を支えるために、農民は余剰生産物の一部を差し出す必要があったでしょう。いわばギブ・アンド・テイクの関係です」。
ファイナマン氏とニコラス氏は、この研究が一つの都市に関する事例研究にすぎないと認めつつも、現代の私たちへの教訓があると強調します。「モンテ・アルバンは、創建時に新しい社会契約が結ばれた都市でした。それ以前のものよりいくらか公平で、エリート中心ではない統治でした。そして集合的で比較的公平な統治のもと、1千年以上にわたって存続しました。しかし一旦崩壊すると、都市の人口は激減し、多くの制度が解体され、より独裁的な統治の時代へと移っていったのです」。