ナンパヤーターニー大砲鋳造場の概要
本遺跡は、パタニの伝説的な大砲「パヤーターニー」の鋳造にゆかりのある、歴史時代の生産遺跡です。ここでは、立地環境から考古学的意義までを分かりやすく紹介します。
地形と立地条件
遺跡は、パタニからナラーティワートへ向かうペッチャカセム通り沿いに位置しています。北側をペッチャカセム通り、南側をクルーセー運河に挟まれた開けた平地で、標高は海抜約8メートルです。
水系と地質
周辺にはタイランド湾、クルーセー運河、パタニ川といった水系が広がり、海上交易との結び付きが強い土地です。地質は砂浜堆積物からなり、タイ王国鉱物資源局の調査(2016年)によっても確認されています。
時代区分と遺跡の種類
考古学的には歴史時代に属し、アユタヤ朝期からラッタナコーシン(バンコク王朝)期にかけての文化が想定されます。遺跡の性格は「生産遺跡」、すなわち大砲などが実際に鋳造された場所です。
大砲鋳造の伝説
パタニの伝承によれば、女王ラジャ・ビルーは家臣たちに大砲の鋳造を命じました。そのため、材料を集めるべく3年間、黄銅(真鍮)の売却と輸出を禁止したといいます。十分な黄銅が揃ったところで大砲の鋳造が行われ、鋳造が実施された場所には今日まで黒い土の痕跡が残り、草ひとつ生えないと伝えられています。
鋳造を終えると、ラジャ・ビルーは大型の2門に「スリ・パタニ」と「スリナガル」、小型の砲には「マハレラ」という名を与えました。
バンコクへの移送と「パヤーターニー砲」の誕生
その後の西暦1786年(仏暦2329年)、ラーマ1世(ブッダ・ヨートファー・チュラーローク王)のもと、ソムデット・ボーウォーン・マハー・スリースィンハナート王子が軍勢を率いてパタニを攻撃しました。この際、「スリ・パタニ」と「スリナガル」の両大砲を船へ積み込むよう指示が出されましたが、移送中の事故でスリナガル砲は水中に落ちて失われてしまいました。こうしてバンコクへ届いたのは、スリ・パタニ砲の1門のみでした。
王はこの砲の砲口部分の形状を改め、磨き直した上で新たに「パヤーターニー砲」の名を授けました。さらに、これと対をなす大砲として「ナライ・キル」を鋳造するよう命じたと伝えられています。
考古学調査による確認状況
考古学調査の結果、パタニ市街において大砲鋳造活動の証拠が3か所で確認されています。第1地点はタンボン(郡区)・タニョンルロー域内に、第2および第3地点はバラホム地区に位置します(Phanuwat Ueasamarnほか 2018:239)。