イタリアで発見された約2000年前の人骨が、史上2例目となる磔刑(たっけい)の直接的証拠である可能性があることが、研究者らによって報告された。
磔刑は、古代ローマが500年以上にわたって用いてきた処刑法である。
「ガヴェッロの男」と呼ばれる人骨
イタリアで磔刑を受けた男性の遺骨が発見されたのだろうか。フェラーラ大学とフィレンツェ大学の研究チームは、考古学・人類学分野の学術誌『Archaeological and Anthropological Sciences』に、12年前にイタリア北部ヴェネト州で発掘された、当時30歳前後とみられる男性(通称「ガヴェッロの男」)の人骨に対して実施した各種人類学的分析の結果を発表した。
「骨格の保存状態は決して良好とは言えませんでしたが、この人骨には磔刑に関連する損傷が認められることを実証できました」と、フェラーラ大学の解剖学専門教授エマヌエラ・グアルディ=ルッソ氏は地元紙エステンセに語った。2007年、ポー平原のローヴィゴ近郊ラルダ・ディ・ガヴェッロにある孤立した墓から出土したこの人骨について、専門家らは足の骨に確認された特異な病変を、この刑罰の痕跡であるとみている。
2007年の発見時における、磔刑を受けた「ガヴェッロの男」の骨格。© Soprintendenza archeologia per le provincia di Verona, Rovigo e Vicenza

「ガヴェッロの男」の遺骨が出土したポー平原ローヴィゴ地方。© Soprintendenza archeologia per le provincia di Verona, Rovigo e Vicenza
記録に残る磔刑と、唯一の直接証拠
磔刑は、極めて残酷な不名誉な死刑方法として、紀元前3世紀から西暦337年までのローマ古代において頻繁に執行されてきた。ローマ刑法でスンモム・スプリキウム(summum supplicium:最高刑)と定義されたこの刑は、コンスタンティヌス1世(272~337年)によってようやく禁止された。
驚くべきことに、最も有名なナザレのイエスのケースや、紀元前71年にスパルタクスに率いられた6000人の反乱剣闘士・奴隷たちがアッピア街道沿い(ローマからカプアまで)で全員磔にされたケースなどを除けば、確立された直接証拠として現存するのはわずかに1例のみである。1968年、エルサレム北東のギヴァット・ハ=ミフタルで発見された1世紀の墓からは、20代の男性イェホハナン・ベン・ハグコルの遺骨が出土した。その踵骨には長さ11.5cmの鉄の杭が刺さったまま残っており、十字架に釘打ちされたことの確かな証明となっていた。

鉄の杭が刺さったままの踵骨(1世紀、ギヴァット・ハ=ミフタルの磔刑者)。© Israel Museum, Jerusalem
踵骨に残された釘の痕跡
イタリアの研究者たちがローヴィゴで出土した骨に対して実施した新たな分析は、大きな節目となる可能性を秘めている。論文の著者らによれば、「保存されている唯一の右踵骨には、釘の刺入孔と、足の外側面を貫通した病変が明白に認められる」という。
(a) ガヴェッロの男の右踵骨。釘が出入りした痕跡が確認できる。© 3D images Hirox University of Siena
磔刑という凄惨な処刑の実態
この非常に苦痛で緩慢な処刑では、まず受刑者の手首または前腕に釘を打ち込み、木製の横木(パティブルム)に固定し、さらに両足をそろえて、あるいは別々に釘で打ち付けた。杭は踵骨(カルカネウス)の部分に打ち込まれるか、足の中央にある中足骨を貫通させられた。十字架は道端や高台など、人目につく場所に立てられた。
磔にされた者は、その姿勢による進行性の窒息によって、消耗と耐え難い苦痛の末に死へと至った。数日間に及ぶこともあるこの苦しみに拍車をかけるため、膝下の脚を故意に折ること(クルキフラギウム)もあった。死後、遺体はしばしば十字架に放置され、猛獣や鳥の餌となった。キケロはこれを「最も残酷で恐ろしい刑罰」と評している。
なぜ磔刑の遺骨はほとんど残っていないのか
では、無数に存在したはずの犠牲者のうち、なぜこれほど少数の事例しか現存していないのか。いくつかの仮説が提唱されている。磔刑の犠牲者は一般に「犯罪者」、脱走兵、奴隷、父親殺しなどであり、その遺体は川に投げ込まれたり、溝に捨てられたり、犬や腐肉食動物の餌にされたりしていた。また、釘には魔術的な力が宿ると信じられていたため、回収されて護符として大切に保管されることもあった。しかし、こうした釘が残存しない場合、骨格の劣化も相まって、専門家が刑罰の痕跡を特定することは極めて困難なのである。
磔刑について
磔刑はアッシリア、バビロニア、ペルシアの世界で生まれた刑罰であり、カルタゴ人からこれを学んだとされるローマ人は、500年以上にわたってこの刑を用いた。『ユダヤ戦記』を著したフラウィウス・ヨセフス(37~100年)によれば、紀元前80年頃、ユダヤ王兼イスラエル大祭司アレクサンドロス・ヤンナイオス(在位紀元前103~76年)の時代には、800人の反対派が磔刑により処刑されたという。

