考古学的発見

「謎の消滅」は神話だった――北米最大級の先住民都市カホキアの真実を研究者たちが解き明かす

ヨーロッパ人による植民地化以前の北米大陸で最も強大な都市の一つだったカホキア。しかし人類学者たちの最新の研究によれば、この都市は神秘的にも突然消え去ったわけではないことが明らかになった。例外的なアメリカ先住民都市の歴史をめぐる通説を、また一つ覆す発見である。

「謎の消滅」は神話だった――北米最大級の先住民都市カホキアの真実を研究者たちが解き明かす

紀元1100年頃、北米最大級のネイティブ・アメリカンの都市として栄えたカホキアの復元イメージ。現在のアメリカ合衆国イリノイ州南西部に位置する。

フィラデルフィアが追いつくまで600年――ミシシッピの巨大都市

紀元12世紀頃の最盛期、カホキアはヨーロッパ人の足跡がまだない北米大陸において最大級の都市の一つだった。合衆国の領土内で同等の規模を持つ都市が現れるのは、実に約600年後のフィラデルフィアを待たなければならなかったほどだ。しかし今日、当時ミシシッピ川流域で最高峰のピラミッド型マウンド(土塁)を擁していたこの地(現在のイリノイ州南部)は、荘厳な考古学遺跡というより、ただの窪んだ空き地に近い姿をしている。数世紀前に大陸最大級のピラミッドがそびえていた先コロンブス文明の中心地テオティワカンとは対照的だ。風化で脆くなっていた遺構は、1960年代までに不動産開発や高速道路建設によって破壊され尽くし、先住民都市カホキアの面影はほとんど残っていない。なお、残されたマウンド群は1982年にユネスコ世界遺産に登録されている。

糞便が語る、記録なき文明の歴史

残念ながら、カホキアの人々は「記録」という概念を持たなかったため、彼らの歴史を伝える文字資料は皆無に等しい。だからこそ、植民地主義的な幻想がこの社会の歴史の空白部分を勝手に埋めてきたのも無理はない。最も根強く信じられてきたのが、1400年頃とされる都市の衰退に関する説だ。アメリカ中西部の広範囲にわたり、経済・文化・宗教の面で数世紀にわたる支配を誇った後、農耕・漁労・交易に従事したカホキアの約2万人の住民は、ヨーロッパ人入植者の到来を待たずして突如姿を消した――それが伝説として語られてきた。

いわば「中西部版・ロアノーク失踪植民地神話」とも言えるこの謎の蒸発は、やがて洪水と干ばつの連鎖、そして尽きることのない資源の枯渇によって説明されるようになった。しかし、カリフォルニア大学バークレー校が主導する研究チームが、この通説にさらなる一撃を加えた。学術誌『American Antiquity』に掲載された論文で、研究責任者の人類学者A・J・ホワイト氏は、人間の糞便ステロール(下記参照)、化石花粉、炭化物などの分析を通じて、北米で最も象徴的な先コロンブス期の大都市の住民たちが、衰退した都市を「突然放棄」したのではないことを突き止めたと報告している。

糞便ステロール――人間の存在を示す確かな指標

食事(特に肉)を消化する際に腸内で生成される有機分子の一種。糞便とともに排出された後、堆積物の層の中に何千年もの間保存されうる。動物のステロールとの混同も心配いらない。人間は動物よりはるかに大量にこれを生成するため、ある地域の人口変動を推定する手がかりとなるのだ。

18世紀までほぼ途切れず続いた先住民の存在

「ヨーロッパ人との最初の接触の時点で、カホキアはゴーストタウンになっていたと長らく考えられてきました。少なくとも考古学的記録が示唆する限りは」とホワイト氏はプレスリリースで述べる。「しかし私たちは、この地域における何世紀にもわたる先住民の存在を復元することに成功しました」。研究者はこれを、「絶滅の危機に瀕したインディアン」という神話への挑戦だと強調する。ヨーロッパ人の到来後の先住民については、その弱体化と消失ばかりが語られ、回復力や存続は軽視されてきたというのだ。

研究チームの分析結果が示すのは、次のような歴史像だ。1400年頃に歴史的最低水準まで落ち込んだ人口は、1500年代に第二波のネイティブ・アメリカン定住の波を迎え、以降1700年代まで安定した存在が続いた。移住、戦争、疫病、環境変化がカホキア社会を真に打ち倒したのは、この時代になってからなのである。
「カホキアの歴史は、『さようならネイティブ・アメリカン、こんにちはヨーロッパ人』といった単純なものではありません」とホワイト氏は皮肉を込めて語る。「そして私たちの研究は、それを証明する革新的な証拠を用いているのです」

トウモロコシ栽培と人身御供の痕跡

人類学者とそのチームによる観察は、カホキアの先住民の暮らしについて断片的にしか知られていなかった情報をも裏付けた。彼らはトウモロコシの栽培、バイソンの狩猟、そして計画的な野焼き(火入れ農法)を実践していた。1960年代後半には、推測の域を出なかった一部の見解が、膨大な人骨の山の発見によって裏付けられることになる。カホキアの人々は、儀礼的な大量殺戮や葬送儀礼にも関与していたのである。1967年には、考古学者チームが発掘した72号マウンドの下から250人以上の人骨が出土した。彼らはおそらく、埋葬の中心に安置された高位の人物二人を称えるために生贄にされたもので、両者の遺骸は豪華な装飾品で飾られていたという。