1960年代の西ドイツで最も期待されたシャンソン歌手の一人、アレクサンドラ。本名はドリス・ネフェドフ。洗練された佇まいと深みのあるアルトの声質がトレードマークで、「ジプシーの少年(Zigeunerjunge)」「私の友、木(Mein Freund, der Baum)」といったメランコリックなヒット曲で国内外に名を馳せた。ウド・ユルゲンスやフランスのシャンソン歌手たちとも共演し、批評家のお気に入りでもあった。しかし、急速に駆け上がったキャリアは、早すぎる死によって突如として断たれる。1969年、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州ディトマルシェン郡の田舎道での自動車事故により、わずか27歳でこの世を去ったのである。
1944年:赤軍から逃れ、キールへ
アレクサンドラは1942年5月19日、当時のドイツ帝国最東端の都市であった東プロイセンのハイデクルーク(Heydekrug)に、ドリス・ヴァリー・トライツ(Doris Wally Treitz)として生まれた。クルシュー潟の近くにある町である。父アウグストと母ヴァリーの間の3人姉妹の末っ子だった。
1944年、赤軍がメーメルラントに進軍すると、一家は西方へ逃れ、ザクセンを経てシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州にたどり着いた。新たな故郷となったのはキール。ドリスは中流家庭で育ち、初等学校を経て女子校のリカルダ・フーフ校に進学した。歌い、踊り、絵を描く創造的な子供であり、10歳でピアノを習い始めた。教会聖歌隊にも所属し、初めて自分で稼いだお金でギターを買うと、自作の歌や詩を書き始めるようになった。
1961年:母と姉妹と共にハンブルクへ
後年、歌手アレクサンドラとしてこう語っている。「学校なんて、私にとってはただの無駄な時間でした」。高校卒業の2年前に学校を辞め、1959年にキールのムテジウス芸術アカデミーでグラフィックを学び始めた。並行して働きもしていた。1961年には離婚した母と姉妹と共にハンブルクのローテンブルクソルト地区へ移住。ハンザ都市ハンブルクではファッションのマイスター学校に通いながら、当時20歳の彼女は歓楽街のバーや酒場でスラブ民謡や自作曲を歌っていた。出版社で速記タイピストとして働いた後、海運会社の秘書も務めている。
1962年:30歳年上のニコライ・ネフェドフとの結婚
19歳のとき、家族と同居していたニコライ・ネフェドフに恋をする。ロシア亡命者である彼はドリスより30歳年上だった。二人は1962年に結婚し、翌年息子アレクサンダーが誕生する。しかし1964年、アメリカ移住の計画は頓挫し、若い結婚生活もその後まもなく破綻。ドリスとアレクサンダーはドイツに残った。
UFAスター・マルゴット・ヘップナーのもとで演技を学ぶ
それでもドリス・ネフェドフは歌手そして女優としての夢を諦めなかった。ハンブルクで元UFAスター、マルゴット・ヘップナーの演劇学校に通い、生活のため製図工のパートで収入を得た。ヘップナーは彼女の才能、とりわけ声の力を見抜いた。1965年、修了直後にノイミュンスターの劇場と契約し、ジョン・カリーノの一幕物「檻(Käfige)」に出演。ボーカルレッスンも受け、後にインガ・ルンプフやウド・リンデンベルクも在籍することになるフォークロックグループ「シティ・プリーチャーズ」とも活動を共にした。
ドリス・ネフェドフからヒットスター「アレクサンドラ」へ
彼女の個性的な声に注目したのが音楽プロデューサーのフレッド・ワイリッヒだった。ロシア語でも歌える点も気に入られ、レコード会社との5年契約を勝ち取る。モンタナ事務所のハンス・R・バイエルラインがドリス・ネフェドフの後見役となった。音楽出版者兼興行主である彼はウド・ユルゲンスのマネージメントも手掛け、ドイツ市場におけるフランスシャンソンの普及にも尽力した人物だ。彼は「アレクサンドラ」の名のもとに若き歌手をスターへと育て上げた。類まれなカリスマ性と憧れに満ちたメランコリックな楽曲は、それまでヒットチャートになかった新しいジャンル――ロシアン・ロマンス――を切り開いていった。
1967年6月、ファーストアルバムをリリース。「ジプシーの少年」や、本人があまり気に入らなかったという「セーンズフト(Sehnsucht/憧憬)」などのヒットに恵まれ、ZDFのヒットパレードの常連ゲストとなる。同年、幼少期を過ごした土地を巡り、エレバンまで足を延ばすツアーをハジー・オスターヴァルト・セクステットと行った。ここに至ってアレクサンドラは歌手としてブレイクを果たす。
「私の友、木」――民俗的イメージからの脱却
しかしアレクサンドラは、「小さなアヌーシュカ」や「黒いバラライカ」のようなスラブ民俗調の楽曲だけを歌い続けることに満足していなかった。ジルベール・ベコー、サルヴァトーレ・アダモ、イヴ・モンタンといったシャンソン歌手たちとの交流を求め、1968年には自ら作詞・作曲も手掛けるようになった。環境保護を歌った賛歌「私の友、木」もその一つである。「彼女はその歌詞とテーマにおいて時代を先取りしていた」とバイエルラインは後年、タブロイド紙「ノイエ・ポスト」に語っている。
ウド・ユルゲンスとの友情から生まれたのが「イルージョン(Illusionen)」である。ユルゲンスが作曲し、アレクサンドラが作詞を担当した。批評家たちは「心には届くが耳には届かない」と評したが、彼女自身はそれを褒め言葉として受け止めたという。1968年にはドイツ最古のテレビ賞「ゴールデン・ヨーロッパ」を受賞。ブラジルの音楽祭ではボサノヴァの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンとも親交を深めた。この旅の様子は、TVディレクターのトルック・ブランスがARDシリーズ「ポートレイト・イン・ミュージック」のためにカメラに収めている。
精神的・肉体的な重圧
仕事で各地を飛び回る日々が続いた。私生活も決して平穏ではなかった。1968年秋、母と息子と共にミュンヘンへ転居。1969年初頭、ハンブルクの父を訪ねると、父はすでに亡くなっていた。アムステルダムでは仏系アメリカ人のピエール・ラフェールと出会い婚約するが、この関係も幸せなものとは言えず、二人は再び別れた。
90日間に及ぶアメリカツアーのオファーも舞い込んだ。だが一躍有名になったことは、若き母親にとって大きなプレッシャーでもあった。彼女は常に追い立てられるような感覚に苛まれていたという。そして何より、自分がなりたい自分になっていなかった。肉体的にも精神的にも健康状態は優れず、医師からはペースを落とすよう忠告されていた。
1969年、ディトマルシェンでの事故死
3年間休みなく働き続けたアレクサンドラは、ついに休暇を決意する。1969年7月30日の夜、母ヴァリーと息子アレクサンダーを連れ、自動車列車でミュンヘンからハンブルクへ向かった。そこから整備したばかりのメルセデスで、ゾルト島へ旅を続ける予定だった。ところがテルリングシュテットの見通しの悪い交差点で、トラックが衝突し、車は路外へ押し出された。歌手はおそらく一時停止の標識を見落としていたのだろう。アレクサンドラは事故現場で死亡し、母ヴァリーもその後まもなくハイデの病院で亡くなった。奇跡的に生き残ったのは、後部座席にいた当時6歳の息子アレクサンダーだけで、軽傷を負うにとどまった。事故現場はやがてファンたちの巡礼地となり、花が捧げられた。葬儀は8月5日にミュンヘンで営まれた。
謎に包まれた事故死
今日まで、アレクサンドラの事故死をめぐっては数々の神話が語り継がれている。それは生前の彼女自身の行動によるところもある。事故の数日前、彼女は遺言状を書き換え、生命保険の額を増額し、息子の学費を1年分前払いし、家族墓を購入していたのだ。
劇作家・映画監督のマルク・ベッチャーは1980年代からアレクサンドラ事件の調査を始めた。きっかけはウド・ユルゲンスとの電話での会話だった。彼はこう告げたという。「アレクサンドラのことは、私の良心に重くのしかかっている」。ベッチャーが出会ったのは半分の真実と矛盾の数々だった。事故の夜、遺体が安置されていた安置室に何者かが侵入した。検分される前に事故車両は姿を消した。事故記録にも改ざんの痕跡があったらしい。調査の続行を警告する脅迫電話さえ受けたが、彼は歩みを止めなかった。1999年、伝記『ある歌手の伝説』と同名のドキュメンタリー映画が発表され、アレクサンドラの死は新たな光の下に置かれることになった。
「アレクサンドラは運転が下手だった」
2004年、ベッチャーは調査の新たな知見を公表した。ピエール・ラフェールがアメリカの秘密工作員として働いていたこと、アレクサンドラと婚約した時点ですでにデンマークで結婚していたことが判明したという。その根拠としてベッチャーが挙げたのは、当局のシュタージ文書だった。一方、マネージャーのハンス・R・バイエルラインは陰謀論に加担することを拒んだ。彼はアレクサンドラの運転技術について良い評価を与えなかった――彼女は運転が下手だった、と。「事故は、彼女が不注意だったために起こったのです」と、事故死から40年後の「ノイエ・ポスト」で語っている。
ハンブルクでは、早世した歌手を偲んで「アレクサンドラ・シュティーク(Alexandra Stieg)」という小路が名付けられている。1969年の夏の日、なぜアレクサンドラが死ぬことになったのかは、一部の人々にとって今なお謎のままである。個人的に彼女を知っていたショービズの大物、フランク・エルストナーにとって彼女は「不朽の存在」だ。2019年、没後50年の節目に際して「キーラー・ナハリヒテン」のインタビューに応じた息子アレクサンダーも同じ思いを口にしている。「母さんのことは、決して忘れられません」