フレデリック・ミストラル(Frédéric Mistral、1830〜1914年)は、南フランスを吹く冷たい風の名を持つフランスの詩人であり、オック語復興運動の熱心な擁護者でした。代表作『ミレイユ(Mirèio)』の作者であるだけでなく、語彙学者・民俗学者としても活躍し、プロヴァンスの文化と言葉の偉大な守り手でした。ジョゼフ・ルマニーユやテオドール・オバネルら他のオック語詩人たちとともに、「フェリブリージュ」と呼ばれる文学運動を立ち上げた人物でもあります。ノーベル文学賞を受賞した彼の座右の銘は「Lou Soulèu me fai canta(太陽が私に歌わせる)」。1906年にはアルルにプロヴァンス博物館「ムゼオン・アルラタン(Museon Arlatan)」を創設しました。
フレデリック・ミストラルの生涯
フレデリック・ミストラルは1830年9月8日、マイヤンヌ村の「マス・デュ・ジュージュ」において、裕福な農家の息子として生まれました。屋外で過ごした少年時代を通じて土地仕事に親しみながら育ちます。ニームでバカロレアに合格した後、エクス=アン=プロヴァンスとアヴィニョンで法学を学び、1851年に学位を取得しました。
卒業後まもなく、彼は三つの決意を固めます。「第一に、あらゆる学校の誤った不自然な教育によって消滅しつつあるのを目の当たりにした、プロヴァンスにおける帰属意識を蘇らせること。第二に、学校が徹底的に敵視する、この土地の自然で歴史的な言語を復興することによって、その復活を実現すること。第三に、神聖な詩の奔流と情熱によって、プロヴァンス語を再び世に広めること」——これが彼の生涯の使命となりました。
1854年、ミストラルはフェリブリージュの創設メンバーの一人となります。これは6人の詩人による一種のアカデミーであり、「国魂(naciounau)を形づくるすべてのもの」を守り伝えることを目的としたものでした。そして傑作詩篇『ミレイユ(Mirèio)』の執筆を進めながら、オック語の大辞書『Lou Tresor dóu Felibrige』の編纂にも取り掛かりました。ステファヌ・マラルメやアルフォンス・ドーデと親交を結び、カタルーニャの作家たちとも交流し、頌歌「カタルーニャの詩人たちへ」を彼らに捧げています。
1876年にマリー・ルイーズ・エメ・リヴィエールと結婚し、1904年には全業績に対してノーベル文学賞を受賞。その賞金の一部をムゼオン・アルラタンの設立に充てました。同年には自伝『わが起源――回想と物語』を出版しています。さらに1912年には、冬前の最後のオリーブ収穫を意味する『オリヴァード(Lis Oulivado)』と題する最終詩集(歌、マドリガル、ソネットなど多彩な作品を収録)を刊行しました。
1914年3月26日、故郷マイヤンヌの自宅にて84歳で逝去。彼の家は「ムゼオン・フレデリック・ミストラル」となり、1930年に歴史的記念物に指定されています。
語彙学者にして詩人
1886年に完成した辞書『Lou Tresor dóu Felibrige』は、8万項目を収録してオック語圏各地の方言を統合し、近代オック語の全語彙を体系的に提示することに成功しました。この労作は文化界の絶賛を浴び、今日なお使用され続けています。
故郷プロヴァンスを歌うことを何より愛した彼は、8年の歳月を費やして1859年に『ミレイユ(Mirèio)』を完成させました。全6123行からなるこの叙事詩は今なお永遠の若さを保ち、牧歌性と叙事性を兼ね備えています。二人の主人公ヴァンサンとミレイユは、『ロミオとジュリエット』や『ポールとヴィルジニー』になぞらえられることもあるでしょう。世界に名高いこの作品は、プロヴァンスの人々の日常、労働、暮らし、祭り、伝統を生き生きと描き出しています。その評価は大きく、シャルル・グノーはこれをオペラ化し、ラマルティーヌは自身の著書の一篇をこの作品に捧げました。
彼の最も美しい詩篇には、船頭たちの暮らしを描いた1897年の『ローヌの詩(Lou Pouèmo dóu Rose)』や、闘牛の興行では観衆により一斉に合唱される「聖なる杯(La Coupo Santo)」などがあります。こうして1904年、抒情詩『黄金の島々(Lis Isclo d'Or)』をはじめとする全業績と、辞書『Lou Tresor dóu Felibrige』に対してノーベル文学賞が授与されたのです。地方言語で書かれた作品によってノーベル賞を獲得した唯一のフランス人であり、彼は自分の詩をフランス語に訳すことを冒涜とさえ考えていました。とはいえ『ミレイユ』のフランス語訳については、重々しく時代遅れの文章になったと批判されることもありました。
それでも今日、ミストラルの作品は約30の言語に翻訳され、オック語は世界180の大学で教えられています。彼はノーベル賞の賞金(10万金フラン)の一部を、アルラタン博物館の設立資金に充てたのです。
伝統の擁護者として
プロヴァンスの伝統と文化の守り手であったミストラルは、19世紀から現代までのプロヴァンスの日常生活を伝える工芸品、文献、証言を展示する博物館を創設しました。「ムゼオン・アルラタン」は、プロヴァンス文明の真の聖域となっています。
ミストラルの活動はオック語の維持にとどまりません。彼は風習や故郷の人々の生き方、自然の保護、建築遺産や環境遺産の保全にも深く心を寄せ、最初期の大規模な地域主義運動と評される「フェリブリージュ」を創設しました。伝統と民族衣装を守るため、1903年にはアルルで400人の乙女たちが参列する「乙女の祭り(Fèsto Vierginenco)」を創設。この祭りは現在も、サント=マリー=ド=ラ=メールにおいて「クミタ・ヴェルジャニアン委員会」の手で毎年受け継がれています。同じ年の10月には、公式視察の途中だったレイモン・ポアンカレ共和国大統領が列車を停めて詩人を訪ね、自身の車両での昼食に招いたという逸話も残っています。
1895年、アヴィニョン市議会がほぼ満場一致で市壁の撤去を決議した際、ミストラルは熱心に遺産保護を訴え、自身の新聞『アイオリ(L'Aioli)』で次のように抗議しました。「これは、長きにわたり国家の感覚を鈍らせてきた、凡庸で反地方的・反芸術的な教育を強制的に詰め込んだ結果、人々の思考に次第に生じた完全な歪みを証明するものである。同時にそれは、現世代が陥っている衰退をも示している」——こうした声に支えられ、アヴィニョンの市壁は今日まで守られています。
フレデリック・ミストラルへの国家的追悼
2014年は、文化省の支援による各種イベントを通じて、国内外で高く評価されるこの偉大な詩人の業績を称える記念の年となりました。フレデリック・ミストラルの人生における目標はただ一つ、未来を照らし出すことでした。2014年1月28日、地域言語・少数言語に関する欧州憲章の批准を可能にする憲法改正案が国民議会で圧倒的多数で採択された日、天国の彼もさぞ喜んでいたことでしょう。
参考文献
『栄光と誤解のフレデリック・ミストラル』ジェラール・ボーダン著、HC Editions、2010年
『わが起源――回想と物語』F・ミストラル著、Auberon、2000年