歴史上の人物

タラバイ・モヒーテ――マラーター帝国を守り抜いた女摂政、優れた戦略家

インド・マラーター帝国の摂政タラバイ・モヒーテ(1675年~1761年)は、その類まれな勇気で名を馳せ、領土を占領しようとするムガル帝国に対して武装抵抗を展開した女性として知られています。

王室に最も近い場所で育つ

タラバイは1675年、前年にムガル帝国への反乱によって正式に建国されたばかりのマラーター帝国で生まれました。モヒーテ家の出身で、父は皇帝(チャトラパティ)シヴァージー1世の軍を率いた総司令官ハーンビーラーオ・モヒーテです。両家は婚姻によっても結ばれており、ハーンビーラーオの妹でタラバイの叔母にあたるソーヤーラーバーイーは、皇帝シヴァージー1世の妃の一人でした。

少女時代のタラバイは、騎乗や弓術、武器の扱いにとどまらず、軍事戦略や外交の心得まで学びました。時代はまさに激動のさなかにありました。アウラングゼーブ帝率いるムガル帝国が反乱の鎮圧を目指す一方で、シヴァージー1世はマラーター帝国の領土と勢力圏を拡大し続けていたのです。

夫ラージャーラームの治世

タラバイは、シヴァージー1世とソーヤーラーバーイーとの間の末子である従兄弟ラージャーラームと結婚します。ラージャーラームには3人の妃と3人の息子がおり、その一人がタラバイとの間にもうけたシヴァージー2世でした。1680年にシヴァージー1世が没すると、長男サンバージー1世が王位を継ぎます。しかし彼はムガル軍に捕らえられ、1689年に処刑されました。妃イェースーバーイーと息子シャーフーは人質として抑留されます。こうしてラージャーラームが異母兄の後を継ぎ、チャトラパティとなりました。

父のそれと同じく波乱に満ちたラージャーラームの治世は、マラーター帝国の領土を占領するムガル帝国との対決に特徴づけられます。1689年3月にラーイガドで戴冠したものの、ラージャーラームは地域を占地域を占拠するムガル軍から逃れるために変装を余儀なくされました。そして1700年3月、肺の病気によりこの世を去ります。タラバイはただちに、わずか4歳の息子シヴァージー2世の名において摂政を宣言しました。

マラーター軍の総指揮官として

摂政となった25歳のタラバイ・モヒーテは、軍の指揮権を握り、アウラングゼーブ帝率いるムガル帝国との戦いを主導しました。ムガル側の歴史家ハーフィー・ハーンはこの時期について次のように記しています。
「ムガル側は、幼い二人の子どもと、頼るべき夫を失った一人の女を倒すのは容易だろうと考えていた。敵は弱く、取るに足らず、無防備だと思われていた。ところがラージャーラームの妻タラバイは、統率と統治において驚くべき力量を示し、日が経つにつれ戦火は広がり、マラーターの勢力は増していった」

タラバイは軍事戦略の才に恵まれ、戦場の内外を問わず有能さを発揮しました。優れた騎手でもあった彼女は、自ら先頭に立ってムガル軍との戦いを指揮し、突撃の先頭に身を置くことさえありました。戦場を離れたときには、マラーター帝国各地を巡って自らの権威を示し、同盟を築き、敵将校の買収まで行っています。ムガル側の将校ビムセンは回想録の中で、彼女は夫よりも強力な指導者だったと述べています。

1706年には一時ムガル軍の捕虜となりますが、豪華な宝石で兵士を買収して脱出に成功しました。摂政としての時期を通じて、タラバイはマラーター帝国をまとめ上げ、ムガルの弾圧から守り抜き、敵を退け続けたのです。

対立する宮廷の樹立

1707年、88歳のアウラングゼーブが死去しました。マラーター帝国が一時的な権力空白に乗じないよう、またその勢力を分裂させるため、ムガル側は18年間拘禁されていたシャーフー――先帝サンバージー1世の息子でタラバイの甥にあたる人物――を釈放することにしました。この策略は成功します。シャーフーは本来なら父の死後に継承していたはずの王位を主張し、短い争いの末、シヴァージー2世は従兄に位を譲る形で廃されたのです。

そこでタラバイはコルハープルに対立宮廷を開きます。シヴァージー2世は1710年から1714年までコルハープルのラージャ(王)として短期間統治しましたが、今度は父のもう一人の妃ラージャスバーイーによって再び廃位され、その息子サンバージー2世が即位します。タラバイと息子は投獄され、シヴァージー2世は1726年に病で亡くなりました。

ペーシュワー・バーラージー・バージー・ラーオとの対立

1730年、タラバイはシャーフー1世と和解し、サーターラーに居を構えます。政治権力こそ手にしなかったものの、影響力を完全に失ったわけではありませんでした。シャーフー1世の晩年、彼は「ラージャーラーム」という名の男を紹介されます。タラバイによれば、自分の孫だというのです。実は彼女の息子の落胤で、サンバージー2世から守るために出生時に密かに隠され、兵士の妻に育てられたのだといいます。

シャーフーはこの若者を養子に迎えました。1749年にシャーフー1世が死去すると、ラージャーラーム2世が即位します。タラバイは遠征に出ていたペーシュワー(宰相)バーラージー・バージー・ラーオの罷免を新王に迫りましたが、ラージャーラーム2世はこれを拒否。するとタラバイは「彼は自分の孫などではなく偽物だ」と主張してラージャーラーム2世を幽閉し、ある貴族の女性と手を組みます。しかしその軍勢は敗北し、タラバイはついに敗北を認めて和議に署名せざるを得ませんでした。彼女は最後までラージャーラーム2世が自分の孫ではないと言い張りますが、男は王座に留まり、実権はペーシュワーのバーラージー・バージー・ラーオが握ることになりました。

タラバイは1761年12月、86歳でこの世を去りました。同年1月、マラーター帝国はパーニーパットの戦いでドゥッラーニー帝国のアフガン軍に壊滅的な敗北を喫していたばかりでした。この決定的な敗北は、彼女が守り抜いてきた帝国の衰退の始まりを告げるものでした。