ファーティマ朝の王女シット・アル=ムルク(970年~1023年2月11日)は、異母弟であるカリフの死後に権力を掌握し、摂政として帝国の舵取りを行った人物です。先代の恐怖政治に終止符を打ち、揺らぎかけたファーティマ朝を再建へと導いた、知恵と決断力に満ちた女性統治者でした。
カリフの娘として生まれて
シット・アル=ムルクは970年9月、チュニジアのカイラワーン近郊にある都市マンスーリヤで生まれました。父は第4代ファーティマ朝カリフ、ムイッズ・リ=ディーン・アッラーの息子ニザール王子、母は奴隷出身の女性でした。
彼女が誕生した頃、ムイッズはエジプト征服を推し進め、新都アル=カーヒラ(カイロ)を建設して首都を移していました。シット・アル=ムルクが3歳半の頃、一家はこの新しい都へ移ります。975年にムイッズが死去すると、その子アブー・マンスール・ニザールが「アズィーズ・ビッラー」として第5代カリフに即位しました。これこそが彼女の父です。
聡明で美しいと評されたシット・アル=ムルクは、父から深く愛され、恵まれた少女時代を過ごしました。父は彼女に親衛隊を与えて守らせ、専用の宮殿を建てさせ、その意見にも真剣に耳を傾けたといいます。
当時、ファーティマ朝の王女たちは権力の座から遠ざけられ、慈善事業や公共建築・宗教建築の建立に生涯を捧げるのが通例でした。しかしシット・アル=ムルクはその枠にとどまりません。宮廷の政治サークルに加わり、父の意思決定に影響力を及ぼすようになったのです。989年には、宰相イブン・ナストゥールスが父カリフの寵愛を取り戻せるよう尽力したと伝えられています。
権力掌握の試み
985年、14歳のシット・アル=ムルクに、キリスト教徒の母を持つ異母弟マンスールが生まれました。ほかのファーティマ朝の王女たちと同じように、おそらく王位継承者を増やさないため、彼女は生涯結婚しませんでした。その代わりに、ファーティマ朝帝国の政務に自らを捧げていくことになります。
約20年に及ぶ統治の末、カリフ・アズィーズは996年10月に死去しました。シット・アル=ムルクは、自分を支持する廷臣たちと宮殿衛兵を率いて、急ぎカーヒラのカリフ宮殿へと向かいます。そして王位継承に介入し、従兄を擁立しようとした可能性があるとされますが、この試みは失敗に終わりました。有力な宦官バルジャワーンに阻まれ、異母弟が王座に就いたのです。わずか11歳のマンスールは、第6代カリフ「ハーキム・ビ=アムル・アッラー」として即位しました。
弟の恐怖政治
幼いカリフは後見人の補佐を受けながら統治を始めました。シット・アル=ムルクは弟の寵愛を勝ち取り、多くの贈り物を献上しては、かつて父に対してそうであったように大きな影響力を握っていきます。1000年、宦官バルジャワーンが暗殺されると、ハーキムは独自行動を取り始めました。同年、彼は異母姉にエジプトとシリアの所領や、莫大な収入をもたらす特権を与えます。彼女はこれを独自の行政機構を通じて管理したといいます。
しかしながら、カリフと異母姉の協調関係は長く続きませんでした。ハーキムは次第に厳格で苛烈な法令を敷き始めます。特に非ムスリム臣民(ズィンミー)への抑圧は深刻で、宰相や高官、官吏のみならず一般市民の暗殺まで頻発しました。姉弟間の不信が深まるにつれ、ハーキムは姉の支持者たちの処刑にも手を染めます。拷問、殺戮、反乱の鎮圧――第6代カリフの治世は、まさに恐怖政治と化していったのです。
この恐怖はハーキムの私生活にも及びました。1013年、史料によれば、彼は后妃たちに対して極めて暴力的な振る舞いをしたといいます。ついにはシット・アル=ムルクが介入し、ウム・ワラド(主人との間に子をもうけた奴隷女性)ルカイヤとその息子アブー・ル=ハサンを保護下に収めました。彼女は甥を自らの手で養育することになります。これに対抗してハーキムは、実の息子ではなく、従兄弟にあたるダマスカス総督アブドゥッラヒーム・イブン・イリヤースを後継者に指名しました。
ファーティマ朝の摂政として
1021年2月、ハーキムは夜の散策中に忽然と姿を消します。5日後、刺し傷だらけの衣服が発見されました。中世の史料の中には、シット・アル=ムルクがこの殺害を命じたと告発するものもありますが、その記述は反ファーティマ朝の立場にある年代記作者によるものであり、今日では広く疑問視されています。同時代の他の史料は、王女を弟の失踪の責任者とはみなしていないのです。
シット・アル=ムルクは、甥であり被保護者でもあるアブー・ル=ハサンを王座に就けようとしました。亡きカリフが指名した後継者であるダマスカス総督を排除するため、彼女は総督をエジプトへ招き、投獄します。総督は獄中で死にました。こうして甥は第7代カリフ「ザーヒル」として即位します。史料が「姫叔母」(アル=サイイダ・アル=アンマ)と呼ぶシット・アル=ムルクが、摂政の座に就いたのです。
摂政として、シット・アル=ムルクは異母弟の恐怖政治がもたらした混乱から帝国を立て直すことに全力を尽くしました。ただし、彼女自身も政治的暗殺といった過激な手段を用いることがありました。
財政面では、ハーキムが支持者にばら撒いた数々の恩恵を撤回し、廃止されていた税を復活させることで帝国の財政を再建します。政策の面でも、弟の路線とは正反対の道を進みました。制限されていた権利と自由、特に女性とズィンミーに関するものを回復し、宗教的寛容を復活させたのです。強制的に改宗させられた人々が元の信仰へ戻ることを認め、女性が外出する自由も保障しました。
1023年2月、シット・アル=ムルクは赤痢のため死去しました。彼女の死後、ファーティマ朝帝国はさまざまな要因が重なり、危機の時代へと足を踏み入れることになります。