歴史上の人物

メアリー・スチュアート:殉教者の女王と呼ばれたスコットランド女王の波乱の生涯

メアリー・スチュアート(スコットランド女王メアリー1世、1542年〜1587年)は、スコットランドの君主です。従姉にあたるイングランド女王エリザベス1世によって幽閉され、大逆罪の有罪判決を受けた末に処刑されました。

生後6日でスコットランドの王座へ

メアリー・スチュアート:殉教者の女王と呼ばれたスコットランド女王の波乱の生涯メアリー・スチュアートは、スコットランド王ジェームズ5世とギーズ家出身の王妃マリー・ド・ギーズの娘として、1542年12月7日または8日に誕生しました。兄が二人いましたが、いずれも生まれて間もなく亡くなっています。同年12月13日、父ジェームズ5世が病に倒れて死去すると、メアリーは生後わずか6日でスコットランド王位を継承することになりました。

王位継承順位第2位のアラン伯ジェームズ・ハミルトンは、1543年1月に摂政に任命されます。イングランドのヘンリー8世との同盟交渉が破談に終わった後、同年9月9日、生後10か月のメアリーは、スコットランド・カトリック教会の長でありヘンリー8世の宿敵でもあったデイヴィッド・ビートン枢機卿の手によって戴冠しました。

女性にも十分な教養を

その後、イングランドとスコットランドの間で断続的な戦争が勃発すると、スコットランドはフランス重視の外交路線へと回帰します。その結果、メアリー・スチュアートはプロテスタントのイングランドではなく、カトリックのフランスの影響のもとで育つことになりました。1548年には、フランス王太子(ドーファン)との婚約がまとまり、同年8月、6歳になる前の幼いメアリーは母と別れてロスコフ港から船出し、フランス宮廷で教育を受けることになります。

フランスの宮廷でメアリーは、当時の貴族の教養とされるものを幅広く習得しました。乗馬、鷹狩り、音楽、舞踏、修辞学、ラテン語、文学、歴史、地理、諸言語などです。さらに、詩人ピエール・ド・ロンサールから詩作の手ほどきも受けています。1555年5月には宮廷の前でラテン語による演説を行い、「文学や人文科学の教育は女性にとっても十分に値するものである」と訴えました。

フランス王妃からスコットランド女王へ

1558年4月24日、パリにてメアリー・スチュアートとフランス王太子フランソワの結婚式が執り行われます。翌1559年7月にフランス王アンリ2世が死去すると、メアリーはフランス王妃となりました。夫フランソワ2世は健康に恵まれず統治が困難だったため、妻の助言もあって実権はメアリーの親族であるギーズ家の叔父たちに委ねられます。これが王太后カトリーヌ・ド・メディシスの不興を買う結果となりました。1560年、フランソワ2世が崩御すると、メアリー・スチュアートは喪に服して表舞台を退きます。

1561年、メアリーは宗教戦争と宮廷の陰謀に揺れるスコットランドへ帰還しました。カトリック信徒であった彼女は国民の一部から疑いの目を向けられます。プロテスタントには寛容な姿勢を示したものの、今度はカトリック指導者たちの離反を招いてしまいました。1565年、メアリーは事前の告知なく、ヘンリー8世の大甥にあたるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚し、息子をもうけます。ところがこの結婚はたちまち破局へと転落。メアリーはボスウェル伯と愛人関係になり、ダーンリーが絞殺死体となって発見されると、メアリー・スチュアートの評判は地に落ちました。スコットランド貴族の連合に拘束されたメアリーは、1567年6月にロッホ・リーブン城へ幽閉され、同年7月24日には1歳の息子ジェームズに王位を譲って退位します。

エリザベス1世の囚人として

1568年5月2日、メアリー・スチュアートは脱獄に成功し軍勢を起こしますが、5月13日のラングサイドの戦いで敗北。イングランドへ逃れたものの、5月19日にはエリザベスによってカーライルで拘束されてしまいます。

その後、とりわけダーンリー殺害事件をめぐる調査が始まりました。メアリーのイングランド王位請求を陰謀とみなしたエリザベスは、彼女を18年間にわたり軟禁状態に置きます。しかし負担が重くなりすぎると、エリザベスの側近たちはメアリー・スチュアートを陥れる罠を仕掛けました。「エリザベス打倒を支援できる共謀者」として近づいてきたのです。メアリーはこの罠にかかり、支援者宛てに送った(暗号化されていたとみられる)手紙を傍受され、死刑判決を受けます。こうして1587年2月8日、メアリーは処刑されました。

処刑の日、メアリー・スチュアートは自らをカトリックの殉教者として示すため、あえて赤いドレスを身につけました。その処刑はあまりにも凄惨で、人々の記憶に深く刻まれることになります。処刑人は酔っていたため、メアリーの苦しみを終わらせるまでに何度も斧を振るわなければなりませんでした。