歴史上の人物

マッジ・サイアーズ――男子選手に挑み、歴史を変えたフィギュアスケートの先駆者

フィギュアスケート史に燦然と輝く先駆者、マッジ・サイアーズ(1881年~1917年)。1902年、出場者の性別を定めていない規定を活かして世界選手権にエントリーし、男子選手を抑えて見事2位に入賞しました。

スケートへの情熱

マッジ・サイアーズ――男子選手に挑み、歴史を変えたフィギュアスケートの先駆者

1881年9月16日、ロンドンにフローレンス・マデリン・ケイヴとして生まれた彼女は、不動産開発業者エドワード・ジャーヴィス・ケイヴと妻エリザベス・アンの間に生まれた15人きょうだいの一人でした。「マッジ」と呼ばれた彼女は水泳や乗馬にも親しむスポーツ好きでしたが、とりわけフィギュアスケートで類まれな才能を発揮します。1896年にロンドンで開場したプリンス・スケーティング・クラブのリンクに通い詰め、人混みを避けて練習に励んでいました。

1899年、マッジは36歳のスケーター兼コーチ、エドガー・サイアーズと出会います。エドガーは同年の世界選手権で3位に入った実力者でした。共通の情熱が二人を結びつけ、ペアとして滑るようになった彼らは、型にはまった伝統的なイングリッシュ・スタイルから距離を置き、より自由なスタイルを追求していきます。1900年にはベルリンのペア競技会で2位に入り、その年の6月に結婚しました。

男子選手たちに挑む

1896年、第1回世界フィギュアスケート選手権が開催されました。出場者は4人、すべて男性です。当時のフィギュアスケートは、他の多くのスポーツと同様に「男性のための競技」とみなされていました。しかし、規則上は女性の出場を禁じる条項は存在しませんでした。1902年、マッジ・サイアーズはこの抜け穴をついてエントリーします。

結果は2位。優勝したのはスウェーデンの名手ウルリッヒ・サルコウでした。サルコウは彼女の演技に深く感銘を受け、自らの金メダルを譲ろうとしたと伝えられています。スケート史家のT・D・リチャードソンは後年、「多くの専門家は、マッジこそが優勝すべきだったと考えていた」と記しています。

この快挙を受けた国際スケート連盟(ISU)は、世界選手権から女性を排除するよう規則を改正し、1906年から女子選手権を新設しました。当時の議論では、「女子選手の服装では足元の技術が見えにくい」「審判が特定の選手に肩入れする恐れがある」「男女を比較することが困難である」などが理由として挙げられたといいます。

頂点へ駆け上がったキャリア

しかし、マッジの勢いは止まりません。1903年、男女混合で行われた第1回全英フィギュアスケート選手権で優勝を果たすと、翌年も連覇を達成。このとき夫エドガーは銀メダルを獲得しています。

1906年、ISUはスイスで初となる「女子選手権」を開催しました。まだ「世界選手権」の名称は冠されておらず、男子大会とは別の日時・会場で実施されました。マッジはこれを制し、史上初の女子フィギュアスケート世界王者となりました。さらに1907年にもタイトル防衛に成功しています。

1908年、ロンドン五輪でフィギュアスケートが初めてオリンピック正式種目に採用されました。マッジは女子シングルとペアの両方に出場します。大会の公式報告書は、彼女のシングル演技について次のように記しました。

「朝の滑走の中で最も際立っていたのは、完璧な姿勢と動きと相まった、彼女の図形の驚くべき正確さであった。」

5人の審判すべてがマッジを首位に評価し、彼女はシングルで金メダルを獲得。さらにエドガーとのペアでも銅メダルに輝きました。

マッジ・サイアーズ――男子選手に挑み、歴史を変えたフィギュアスケートの先駆者

競技を退いた後

オリンピックの後、わずか27歳だったマッジの健康状態は徐々に悪化していきました。彼女は競技からの引退を決意し、夫とともにフィギュアスケートに関する著書の執筆に打ち込みます。

そして1917年9月、マッジ・サイアーズは心臓発作のため、35歳という若さでこの世を去りました。短い生涯でありながら、彼女が切り拓いた道は、のちの女子フィギュアスケート全体の礎となったのです。