歴史上の人物

マルチェロ――古代に着想を得た力強い女性像を生んだ画家・彫刻家

スイス出身の画家・彫刻家アデル・ダフリー(Adèle d'Affry)、カスティリオーネ=コロナ公爵夫人(1836年~1879年)は、「マルチェロ(Marcello)」という筆名で作品を発表しました。彼女の作品は、古代に着想を得た力強い女性像が数多く登場することで知られています。

裕福な家庭に育った少女時代

マルチェロ――古代に着想を得た力強い女性像を生んだ画家・彫刻家

ルシー・ド・マイヤルドとルイ・ダフリー伯爵の長女として、アデライード・ナタリー・マリー・エドヴィージュ・フィリピーヌ・ダフリーは1836年7月6日、スイスのフリブールに生まれました。3年後には妹セシル・マリー・フィリピーヌ・カロリーヌが誕生します。1841年に父が亡くなると、姉妹は母親の手で育てられました。

アデルは富裕な家庭の令嬢として古典的な教育を受けます。画家ジョゼフ・オーギュスト・ディートリヒから素描と水彩画を学び、ローマでは彫刻家ハインリヒ・マックス・イムホーフから塑像の技法を習得しました。

ローマで目覚めた芸術への天職

20歳のとき、アデルはローマでカルロ・コロナと結婚します。カルロは1か月後にカスティリオーネ=アルティブランディ公爵の称号を受け、夫妻はパリへ移り住みました。しかし結婚生活は長くは続かず、8か月後、カルロは腸チフスでこの世を去ります。若き未亡人となったアデルは、1857年に遺産相続の手続きのためローマへ戻らなければなりませんでした。

イタリアの芸術的環境に囲まれたアデルは、ミケランジェロの作品、古代彫刻、市内の教会に残る宗教美術との出会いを通じて深い感銘を受けます。これらの発見は彼女を魅了し、インスピレーションを与え、芸術家としての天職を目覚めさせました。最初の作品は夫の胸像で、続いて自画像を制作しています。

初期の作品と芸術家たちとの交流

マルチェロ――古代に着想を得た力強い女性像を生んだ画家・彫刻家

遺産問題が片づくと、アデルはパリへ移住し、画家ウジェーヌ・ドラクロワや彫刻家ジャン=バティスト・カルポと出会い、カルポから直接指導を受けました。彫刻家オーギュスト・クレサンジェ、画家エルネスト・エベール、作家プロスペル・メリメ、音楽家シャルル・グノー、フランツ・リストといった芸術家たちの輪の中で交友関係を築き、さらにベルト・モリゾやアドルフ・ティエールとも親交を深めていきます。

1860年、アデルはアントワーヌ=ルイ・バリーらのもとで修業を続けながら、初めて成功を収めた作品『美しきエレーヌ(La Belle Hélène)』を制作しました。パリのエコール・デ・ボザールへの入学希望は拒否されましたが、彫刻の技術を磨き続け、医科大学で動物素描と解剖学を学んでいます。しかし同じ年、胸部疾患の初期症状が現れ始めました。

ウジェニー皇后との出会い

マルチェロ――古代に着想を得た力強い女性像を生んだ画家・彫刻家

1863年、アデルはパリのサロンに初めて作品を出展します。女性らしい名前や貴族の称号ではなく、純粋に芸術そのものを評価してもらうため、「マルチェロ」という筆名を名乗ることにしたのです。出展した3つの胸像――『G・ド・N伯爵の肖像』『サン・C公爵夫人の肖像』そして『ビアンカ・カッペッロ』――のうち、『ビアンカ・カッペッロ』は大きな成功を収めました。

この初出展での成功により、アデルはウジェニー皇后から宮廷への招待を受けます。以後、彼女は宮廷やナポレオン3世と交流するようになりました。1865年には皇后の胸像制作の公式依頼を受け、4つの異なるヴァージョンを制作しています。ウジェニー皇后とアデルはどちらもマリー・アントワネットを敬愛しており、アデルも王妃の胸像を2点残しました。

代表作『ピューティア』

1867年にパリで開催された万国博覧会では、ナポレオン3世からの依頼によるギリシャの女神『ヘカテー』を含む8点の作品を発表しました。ブダペスト旅行の後には、「シシィ」の愛称で親しまれるオーストリアのエリーザベト皇后の大理石胸像も制作しています。

アデルはドイツ、オーストリア、イタリア、スペインなどヨーロッパ各地を旅し、多くの芸術作品に出会いながら彫刻と絵画の技術を高め、芸術家の友人たちと共同作業にも取り組みました。パリのサロンには定期的に作品を出展し、宮廷からの注文や建物・公園を飾る装飾制作も手がけています。1869年には古代に着想を得た傑作『ピューティア(La Pythie)』を生み出しました。この作品は現在、パリのガルニエ歌劇場を飾っています。

絵画への回帰

マルチェロ――古代に着想を得た力強い女性像を生んだ画家・彫刻家

アデルは長年、肺の病気に苦しんできました。1870年、健康が衰えるにつれ、体力を大きく消耗する彫刻から次第に絵画へと重心を移していきます。修業も怠らず、画家レオン・ボナからレッスンを受けていました。

絵画に転向して最初の数年間、アデルは自分の絵画をサロンに出品する勇気が持てず、引き続き彫刻を出展しては批評家の絶賛と賞を獲得していました。1874年、ついに最初の絵画『フィエスコの陰謀(La Conjuration de Fiesque)』を出品しますが、審査員に拒否され、深く傷つきました。翌年には、友人である画家ベルト・モリゾの肖像画を描いています。

晩年

1877年、衰えゆく健康に疲弊したアデルは、咳を和らげられる気候を求めてスイス、南仏、イタリアの間を旅しました。余命が長くないことを悟った彼女は、自身の彫刻作品をフリブール州に遺贈し、代わりにそれらを展示する博物館の設立を条件とした遺言状を作成します。さらに『回想録』の執筆を始め、身辺の整理を進めました。

カスティリオーネ=コロナ公爵夫人「マルチェロ」ことアデル・ダフリーは、1879年7月、結核のため43歳でこの世を去りました。彼女が残したのは、古代や宮廷にしばしば着想を得た英雄的な女性像の造形によって特徴づけられた、大胆かつ個性豊かな作品群です。

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参考資料・文献

アデル・ダフリー「マルチェロ」のウィキペディアページ
Marcello, the woman who made marble bend(大理石を屈服させた女)
マルチェロの伝記
『Marcello Sculptor』:アンリエット・ベシス、フリブール芸術歴史博物館(1980年)
『Marcello, sculpteur, un intellectuel dans l'ombre』:グラトリ神父との往復書簡、クリスチャンヌ・ドタル、キュストディア財団(2008年)