歴史上の人物

ヌール・イナヤット・カーン――ナチスに立ち向かった恐れ知らずの女性スパイ

ヌール・イナヤット・カーン(Noor Inayat Khan、1914年~1944年)は、第二次世界大戦中、イギリスの特殊作戦執行部(SOE)に所属した秘密工作員です。無線士としてフランスに派遣され、ロンドンとの連絡を維持しながら重要な情報を送信し続けました。

夢見がちな少女

インドのある王国の支配者一族の末裔である母オラ・レイ・ベイカーと、インドの名門出身でムスリムの宗教指導者だった父ハズラト・イナヤット・カーンの間に、ヌール・ウンニサ・イナヤット・カーンは1914年1月2日、モスクワで生まれました。四人兄弟の長女です。父ハズラトはラスプーチンの招きでロシアを訪れた宗教指導者であり、平和と非暴力の理念に基づいて子供たちを育てました。

1914年、第一次世界大戦の勃発直前に、イナヤット・カーン家はロシアを離れてロンドンへ移住し、1920年にはパリ近郊のシュルンヌに落ち着きました。おとなしく感受性豊かで夢見がちな少女だったヌールは、サン=クルーの高校に通った後、ソルボンヌ大学で児童心理学を、パリ音楽院では作曲家リリ・ブーランジェの姉であるナディア・ブーランジェに師事して音楽を学びました。

1927年に父が亡くなると、ヌールは悲しみに暮れる母と弟妹たちを支える責任を担いました。学業を終えた後は文筆家としての道へ進み、詩や児童向け物語を執筆して雑誌やラジオ番組に寄稿し、童話集『ブッダの前世の物語 ジャータカ二十話』を出版しました。

空軍婦人補助部隊(WAAF)へ

第二次世界大戦が勃発し、ドイツ軍がフランスに侵攻すると、ヌール・イナヤット・カーンは家族とともにボルドーから船に乗り、イギリスへ脱出しました。平和主義と非暴力の価値観の中で育ったにもかかわらず、彼女は兄ヴィラヤットとともにナチズムとの戦いに参加することを決意します。

1940年11月、ヌールは空軍婦人補助部隊(WAAF)に入隊しました。英語とフランス語を操れた彼女は、無線通信士の集中訓練を受講し、1941年にはアビンドン爆撃基地の無線連絡部門に配属されます。同年、将校に昇進して諜報活動を専門とするようになりました。1942年末、ヌールは第二次世界大戦中に活動していたイギリスの秘密機関、特殊作戦執行部(SOE)に採用されます。その任務は、プロスペル=フィジシャン網の下部組織であるPHONO網の無線士としてフランスに潜入すること。危険を承知の上で、彼女はこれを受け入れました。

特殊作戦執行部(SOE)

集中的とはいえ不完全な訓練を終え、少尉の階級を与えられたヌール・イナヤット・カーンは、夜間にフランスへ潜入しました。彼女が携えていたのは、「ノーラ・ベイカー」という偽名の変造書類、偽の食料配給券、自動拳銃、覚醒剤、睡眠薬、嘔吐を装うための薬、そして青酸カリのカプセルでした。こうして彼女は、フランスに送り込まれた最初の女性無線士となったのです。

パリに着いたヌールは連絡先と接触し、ただちに任務に取りかかって情報をロンドンへ中継しました。しかし数日後、裏切りによってネットワークの指導者たちが逮捕され、ヌールは逃走して他の協力者の元に身を隠します。PHONO網に対する大規模な包囲網が敷かれる中、彼女は危険を顧みず送信を続け、何度も逮捕の危機を間一髪で回避しました。

パリ地域で唯一の無線士

その後数週間のうちにネットワークのメンバーは次々と姿を消し、ヌール・イナヤット・カーンはパリ地域におけるF課で自由に活動できる唯一の無線士となりました。SOEの責任者はこれについて「彼女の通信拠点は現在、フランスで最も重要であり、最も危険な場所である」と記しています。

ヌールはこの責任を真摯に受け止め、フランス国内の工作員からの情報をロンドンへ伝え続けました。同時に、大半のメンバーが逮捕されて崩壊したネットワークの再建にも尽力します。警察は彼女の正確な人物像を掴んで捜索しており、長時間の送信は不可能で、常に移動を余儀なくされましたが、それでも彼女は決して諦めず、イギリスへの帰国の打診さえも拒みました。

裏切り

1943年10月、ヌール・イナヤット・カーンは裏切られます。裏切り者は、ネットワーク指導者の妹ルネ・ガリーだったとも、二重スパイの疑いをかけられていたSOE将校アンリ・デリクールだったとも言われています。10月13日、若き女性工作員はゲシュタポに逮捕されました。彼女は激しく抵抗し、何度も脱走を試みますが、そのたびに捕らえ直されました。一か月以上にわたる尋問の中で、彼女は自分の活動について一切の情報を明かしませんでした。しかし、彼女の残したメモとSOE側の警戒の甘さにより、ドイツ側は彼女になりすまして、ロンドンへ偽情報や罠だらけの集合場所を送信することが可能となってしまいました。

度重なる脱走未遂のため、ヌールは危険な囚人として扱われました。鉄の扉の隔離室に9か月間閉じ込められ、手足を縛られ、その間を鎖でつながれた状態でした。この過酷な扱いにもかかわらず、ヌールは最後まで協力を拒み続けました。1944年9月、彼女は他の3人の囚人とともにダッハウ強制収容所へ移送されます。4人の女性はSS将校たちに激しく暴行された後、射殺されたのです。

ヌール・イナヤット・カーンが死の直前に口にした最期の言葉は、「自由(Freedom)」でした。