
シモン・ド・モンフォール(Simon de Montfort、1165年頃~1218年6月25日)は、中世フランスの貴族にして武将です。父方の家系はイル=ド=フランス地方の男爵家に、母方はアングロ=ノルマン系のイングランド貴族の家柄につながっていました。彼は第四回十字軍およびアルビジョア十字軍で活躍し、とりわけ南仏カタリ派(アルビジョア派)弾圧の指導者として歴史に名を刻んでいます。
家系と出自
シモンはパリ近郊のモンフォール=ラマリーを本拠とする男爵家に生まれました。父シモン3世はフランス王権に仕える有力な男爵であり、母アミシア・ド・ボーモンはイングランドのレスター伯家の出身でした。この縁により、彼は後にイングランドにおけるレスター伯位の請求権を主張することになります。若い頃から武勇に優れ、騎士として早くから名声を得ていたと伝えられます。
第四回十字軍への参加
1202年、シモンは第四回十字軍に参加するため海路東方へ向かいました。しかし、この十字軍は途中でキリスト教圏の都市を攻撃するという経緯をたどったため、彼はそれに加担せず、シリアへ渡って聖地防衛に尽力したといわれています。帰国の際には「聖十字架」の破片を持ち帰り、これをオート=ブリュイエール修道院に寄進しました。
アルビジョア十字軍の指揮官へ
1208年、教皇使節ピエール・ド・カステルノーが暗殺されたことを機に、教皇インノケンティウス3世は南フランスの異端カタリ派討伐を目的としたアルビジョア十字軍を布告します。翌1209年、シモンはこの十字軍に加わり、ベジエとカルカソンヌの包囲戦に従軍しました。ベジエでは住民が大量虐殺されるという悲劇が起き、カルカソンヌ陥落後、シモンは十字軍の新たな指揮官に推挙されます。まもなく彼はベジエ子爵およびカルカソンヌ子爵の地位を獲得し、以後10年にわたりラングドック征服戦争を主導することとなりました。
ミュレの戦いとアラゴン王ペドロ2世の敗死
カタリ派弾圧に対抗したトゥールーズ伯レーモン6世は、義兄にあたるアラゴン王ペドロ2世の支援を受けていました。1213年9月、シモンはミュレの戦いにおいて数で勝る連合軍を打ち破り、自ら先頭に立って奮戦しました。この戦いでペドロ2世は戦死し、シモンの武勇はヨーロッパ中に知れわたります。1215年にはトゥールーズ伯領の大部分を与えられ、事実上ラングドックの支配者となりました。
トゥールーズ包囲戦での最期
しかしその支配は、過酷な統治と虐殺によって現地民の強い反発を招きました。1217年、トゥールーズ市民が反乱を起こして町を奪還すると、シモンはただちに包囲戦を開始します。そして1218年6月25日、城壁攻撃の最中に投石機から放たれた石が頭部に直撃し、シモンはその場で絶命しました。伝承によれば、この投石機を操作していたのはトゥールーズの女性たちだったと伝えられています。
人物像と評価
シモン・ド・モンフォールは、戦場における卓越した勇気と統率力を備えた名将である一方、カタリ派や反対勢力に対しては容赦のない残酷さで知られ、その名は恐怖の象徴として語り継がれてきました。篤い信仰心と冷酷な行動が同居するその姿は、中世十字軍時代の光と影を象徴する存在といえるでしょう。なお、同名の息子シモン・ド・モンフォール(第6代レスター伯)は、後にイングランドで議会政治の礎を築いた人物として広く知られています。