
1947年8月15日の独立を目前に控えたインド。イギリス総督の政治顧問コンラッド・コーフィールドは、土着の藩王たちに対し、駐在官や政治代理官を通じて「インド連邦から離脱せよ」と働きかけ、ムハンマド・アリー・ジンナーを支援していました。
「道は三つある」という工作
コーフィールドの狙いは、少なくとも2〜3の藩王国――その筆頭がハイデラバード――を国民会議派(コングレス)の手から逃れさせ、残りの藩王国のインドへの編入をできるだけ困難にすることでした。
彼は藩王たちに「選択肢は二つではなく三つある」と訴えました。すなわち、インドかパキスタンのいずれかに加盟するか、あるいは完全な独立国として生き残るかという第三の道です。この工作により、トラヴァンコールとハイデラバードは、どちらの自治領にも加わらず独立国として存続する意向を宣言しました。
焼き払われた機密文書
独立まであと5週間という時期、コーフィールドはマウントバッテン総督に一切知らせることなく、藩王国から中央政府の権限を撤去し始めました。彼の指示を受け、多くの藩王国で機密ファイルが焼却されます。そこには、イギリス政府と藩王国の間で交わされた秘密の往復書簡が保管されていました。その内容とは、藩王たちが自領内で犯した虐殺、殺人、強姦といった罪に関する記録だったのです。
パテルとメノンの合併方針
コーフィールドの活動によって、中央政府と藩王国との間の取り決めは次々と破棄されていきました。藩王たちは8月15日までに、軍隊や郵便などの既存の制度をどう維持するべきか、大きな不安を抱えていました。こうした中、サルダール・パテルとV・P・メノンは、藩王たちには「国防・外務・交通」の3分野についてのみインドへの帰属を求めるという現実的な方針を打ち出そうとしていたのです。
決断――当日中の解任
コーフィールドの一連の動きを知ったサルダール・パテルは、ただちにマウントバッテン総督へその行為を報告し、「彼を即時解任し、イギリスへ送還せよ」と強く要求しました。総督自身もコーフィールドの独断的な活動にはうんざりしており、その日のうちに彼を解任。こうしてコーフィールドは、インド独立の歴史的瞬間を見届けることなく、本国イギリスへ送り返されることとなったのです。