歴史上の人物

56. ガンジー・アーウィン協定は国内で大きな波紋を呼んだ

56. ガンジー・アーウィン協定は国内で大きな波紋を呼んだ

イギリス政府の思惑と協定の成立

イギリス政府は、何としても国民会議派を第二次円卓会議に参加させようとしていました。そのため、テージ・バハドゥル・サプルー氏とジャヤカル氏の尽力により、1931年3月5日、副王アーウィン卿とガンディーの間で協定が結ばれました。これがいわゆる「ガンジー・アーウィン協定」です。円卓会議への出席を巡る駆け引きの中で国民会議派は有利な立場にあったため、国民はこの協定に大きな期待を寄せていました。

革命家たちの処刑問題は放置された

ガンディーとアーウィンの話し合いが進められていた当時、バガト・シン、ラジグルー、スクデヴの3人は獄中にあり、死刑判決を受けていました。そのため、全国から「ガンディーは副王に圧力をかけ、3人の死刑を終身刑へ減刑すべきだ」という声が上がりました。しかし、非暴力の原則を貫いたガンディーは、副王との交渉の場で革命家たちについて一切言及しませんでした。

協定の内容とその評価

1931年2月17日から3月5日まで続いた交渉の中で、ガンディーは国民会議派が不服従運動を撤回することを受け入れました。一方、アーウィン側は、サティヤーグラヒ(非暴力抵抗運動の参加者)に対する政府の措置を取り消すこと、彼らを釈放したうえで、奪われた土地や職を返還することを約束しました。
しかし実質的に見れば、国民会議派はこの協定からほとんど何も得ることができず、国は元の状態へと戻ってしまいました。そして、国家の独立という最大の課題は完全に二の次となり、革命家たちは置き去りにされたのです。

当時、スバス・チャンドラ・ボースとヴィタールバーイ・パテルは海外におり、そこからガンディーの対応に強く反対の意を表明しました。ボースは「この協定から明らかなように、ガンディーは政治家としては失敗だった」とまで宣言しています。

国内に広がる失望と反発

国民の間には「ガンディーは突然、必要もなく武器を捨てた」という受け止め方が広まり、それまで犠牲を払ってきた人々の努力がすべて水の泡になったという失望感が漂いました。国民会議派の青年層の間には大きな不満が渦巻き、ジャワーハルラール・ネルー自身もこの協定に深い憤りを覚えていました。

ガンジー・アーウィン協定の後、国民会議派は不服従運動を正式に撤回し、第二次円卓会議への参加を表明しました。政府側も国民会議派に対する禁止令を解除し、収監されていたサティヤーグラヒたちを釈放しました。

カラチ大会前日の悲劇

協定締結から数日後の1931年3月末、国民会議派のカラチ大会が開催されました。当時のインドの政治情勢は極めて緊迫していました。なんと大会開催の前日、バガト・シン、ラジグルー、スクデヴの3人が絞首刑に処されたのです。

数億人のインド人の心に浮かんだ疑問は、「なぜガンディーは突然、不服従運動を中止したのか」というものでした。インドの青年たちは、インドが独立を果たすまで運動を継続すべきだと考え、イギリス政府との妥協には断固として反対していました。こうした抗議の高まりを受けて、ガンジー・アーウィン協定がカラチ大会で承認されることは困難であることが、ますます明白になっていったのです。