
円卓会議後の冷徹な回答
第二次円卓会議の後、ロンドンでガンディーはインド担当大臣ホーア卿と会見し、インド問題の解決を求めました。しかしホーアの答えは冷たく、率直なものでした。「あなたに何かを与えることはない。これからは国民会議派さえ存続させはしない」と。
こうして1931年12月28日、ガンディーは再び何も得られないままイギリス当局との交渉の場を去りました。新総督ウィリンドン卿は国民会議派を非合法組織と宣言し、さらに1932年1月4日には、政府が理由を示すこともなくサルダール・パテールとガンディーをヨラワダ刑務所へ投獄しました。パテールはその後16か月間、ガンディーとともに同刑務所で過ごすことになります。
ガンディーへの献身――母を思い出させる仕え方
当時、ガンディーは茶と米を口にしていませんでした。それを知ったパテールもまた、茶を飲まず米を食べませんでした。彼は常にガンディーの身の回りの世話を焼き、些細な用事までも引き受けていたといいます。ガンディーが朝4時に起きれば、パテールも同じく4時に起きました。ガンディーがそれより早く起きたなら、パテールもすぐに続いたのです。ガンディーが「もう少し眠っていなさい」と言えば、パテールはこう答えました。「あなたが起きているのに、私だけが眠っていられるでしょうか?」
釈放後、ガンディーは日記にこう記しています。「サルダールは獄中で私にあまりにも尽くしてくれた。まるで母親を思い出すようだった」と。
母の死と、条件付き釈放の拒否
実はパテールが投獄されてまもなく、母親がこの世を去っていました。政府は一定の条件と引き換えに釈放するという提案を出しましたが、パテールは無条件の釈放以外を受け入れませんでした。政府がこれに応じなかったため、パテールは獄中のまま母の死を悼むほかありませんでした。
兄ヴィタールバーイーの訃報と「鉄の人」の信念
翌1933年、今度は兄ヴィタールバーイーが海外で亡くなったという悲報が届きます。遺体は最期の儀式のためボンベイ(現ムンバイ)へ運ばれました。誰もがヴァッラブバーイーに葬儀へ参列してほしいと願いましたが、政府は再び「条件付き釈放」を持ちかけます。パテールは今回も政府の条件を突っぱねました。
おそらく政府は、この時になってようやく悟ったのでしょう。この男は骨と肉ではなく、鉄でできているのだということを。
健康悪化と無条件釈放
獄中でパテールの健康は悪化の一途をたどりました。鼻の痛みはひどくなり、呼吸さえ困難になったのです。医師団の診察の結果、即座に手術を受けるべきだとの勧告が出されました。結局、イギリス政府は無条件釈放に同意せざるを得ませんでした。1934年、パテールはついに釈放され、ヨラワダからボンベイへ向かいます。こうして長い苦難の時を経て、彼はようやく鼻の手術を受けることができたのです。
このような揺るぎない意志と自己犠牲の精神こそが、後にパテールが「インドの鉄人(Iron Man of India)」と呼ばれる理由となったのです。