歴史上の人物

53. サルダール・パテルが英国長官の前で整列を拒んだ理由

53. サルダール・パテルが英国長官の前で整列を拒んだ理由

インド独立運動の指導者サルダール・ヴァッラブバーイー・パテルは、一般の囚人とまったく同じ扱いで収監されました。与えられた食事はソルガム粉のロティ(無発酵パン)と少量の野菜や豆類、寝具は毛布一枚のみ。しかし、農民の息子として育った彼にとって、こうした質素な生活は何の苦痛でもありませんでした。

むしろパテルは獄中で『バガヴァッド・ギーター』を唱え、周囲の囚人たちに自由運動への参加を呼びかけるなど、獄内においても指導者としての存在感を保ち続けました。

獄吏への寛容な態度

パテルは、獄吏たちが職務を怠ったり、無礼な態度を取ったりしても、決して怒ることがありませんでした。職員が失礼な振る舞いをしても、サルダールは常に冷静さを保ったといいます。

彼はこう語っています。
「彼らは私の同胞だ。もし相手が白人なら、きっぱりと言ってやるところだ。自国の人々が日々の糧を得るために外国人に仕えているのは実に嘆かわしい。もし彼らが政府の職を辞めれば、イギリス政府などインドでは一日たりとも存続できないだろう」

英国長官の前での整列拒否

あるとき、コミッショナー(行政長官)のギャレットが監獄の視察に訪れました。囚人たちは皆、敬意を表するため一列に並んで立つよう命じられました。ところがサルダールだけは整列を拒み、「それは私の自尊心に反する」と明言しました。

視察を終えたギャレットは、サルダールとの面会を求めました。面会の場でサルダールはこう告げました。
「指導者たちを投獄すれば運動を抑え込めると思っているなら、それはあなたの誤りだ。何百万ものインド人が今この瞬間も、自由のために戦い続けている」

さらに彼は付け加えました。
「私たちと話したいのであれば、まず獄中のすべての指導者を釈放することだ」

ギャレットには返す言葉がありませんでした。彼は黙って立ち上がり、その場を去ったといいます。

釈放と指導権の継承

刑期を満了したサルダールは、1930年6月26日に釈放されました。出獄して彼が知ったのは、ガンディーがすでに5月6日に逮捕されており、投獄前にモティラール・ネルーを後継者に指名していたという事実でした。

サルダールの出獄を受けて、モティラールは彼を自らの後継者として宣言します。しかしその直後の6月30日、今度はモティラール自身が逮捕されました。こうして国民会議派の舵取りは、パテルの手に託されることになったのです。

広がり続ける不服従運動

出獄したパテルは、自分が不在の間も人々が闘争を諦めていなかったことを知りました。彼が逮捕されたラス地方では、サティヤーグラハ(非暴力・市民不服従運動)が最高潮に達していました。

人々は外国製の衣類を燃やす「ホーリー」の焚き火を行い、政府への地代の納付を拒否していました。グジャラートのほぼすべての村で塩法が破られ、外国製品が次々と焼き払われていました。

また、女性たちも大挙して酒売場に座り込む抗議行動を展開していました。こうした光景を目にしたサルダール・パテルは、深い満足感を覚えたといいます。彼の献身的な努力が実を結び、人々の心の中に自由への価値観が確かに芽生え始めていたのです。