シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir、1908年〜1986年)は、フランスの哲学者・作家であり、20世紀を代表するフェミニズムの理論家です。代表作『第二の性』は、女性に対する抑圧の構造を分析した記念碑的な著作として、後世の運動に絶大な影響を与えました。彼女は1970年代の女性解放運動にも積極的に参加し、その思想と行動は今なお世界中で読み継がれています。
幼少期と学業
1908年1月9日、シモーヌ=リュシー=エルネスティーヌ=マリー・ベルトラン・ド・ボーヴォワールはパリに生まれました。父ジョルジュ・ベルトラン・ド・ボーヴォワールと母フランソワーズの長女です。5歳のとき、良家の子女が通うことで知られた「クール・デジール(Cours Désir)」に入学すると、早くも鋭い知性によって周囲から一目置かれる存在となります。
両親は娘たちの学問を熱心に後押ししました。当時の社会において、女性が自立できる道は勉強しかないという信念があったからです。一方、父親は息子をもうけてエコール・ポリテクニーク(理工科学校)に進ませることを望んでいたともいわれます。こうした家庭環境は、シモーヌの知的好奇心と自立心を育む土壌となりました。
1925年にバカロレアを取得した後、ヌイイのサント=マリー学院で文学を学び、作家になることを志します。1928年には哲学の学位を取得し、ライプニッツをテーマとした論文に取り組みました。この頃、パリ大学文学部でジャン=ポール・サルトルと出会い、二人は生涯にわたる精神的なパートナーとなります。1929年の哲学教授資格試験(アグレガシオン)では、サルトルに次いで第2位の成績で合格を果たしました。
作家そしてフェミニストへ
資格取得後、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは哲学教師としてのキャリアを歩み始めます。マルセイユに赴任することになったサルトルから、ル・アーヴルでの職を共に得られるよう結婚を申し込まれましたが、彼女はこれを拒否しました。彼女にとって結婚とは「家族の義務や社会的な雑務を二倍にするだけ」の制度だったのです。1936年には二人ともパリへ異動します。
しかし教師としての道は平坦ではありませんでした。生徒たちと親しく交際し、一部とは恋愛関係にもなったことが問題視され、1939年にはモリエール校を退任。1943年には、生徒の母親からの告訴により「未成年者への腐敗」を理由に国民教育から停職処分を受けますが、戦後の解放後に復職しています。
処女作となるはずだった『精神の優位』は出版社に拒否されましたが、1943年にガリマール社から刊行された最初の小説『不遜な客(L'Invitée)』は即座に成功を収めます。以降、評論や小説を発表するうちに経済的自立を果たし、専業作家として生きることを決意しました。世界各地を旅し、フィデル・カストロやチェ・ゲバラなど、多くの共産圏の指導者たちと交流を持ったのもこの時期です。
1949年、彼女の名を不朽のものとした『第二の性』が出版されます。男性による支配の構造を多角的に分析したこの著作は大きな成功を収める一方、中絶、母性、結婚を扱った章をめぐって激しい物議を醸すスキャンダルとなりました。それでもなお、シモーヌ・ド・ボーヴォワールはフェミニズム理論における最重要人物の一人として、確固たる地位を築いていきます。
「343人の宣言」と晩年
1954年、小説『高名な人々』でゴンクール賞を受賞し、広く読まれる作家としての名声を確立します。1958年頃から自伝の執筆を開始し、1964年には母の死を通じて延命治療や安楽死の問題を描いた『安らぎの死』を出版しました。
1971年、彼女は「343人の宣言」を起草します。これは、自ら中絶を経験したと公言する343人の女性たちが署名し、自由で安全な中絶の権利を求めた歴史的なアピールでした。シモーヌ自身も署名者の一人であり、カトリーヌ・ドヌーヴ、マルグリット・デュラス、ジゼル・アリミ、ジャンヌ・モロー、フランソワーズ・サガンといった著名人も名を連ねています。さらにジゼル・アリミとともに、中絶の非犯罪化を掲げるフェミニスト団体「シェジル(Choisir)」を共同設立しました。
1980年、サルトルの死後、彼との最期の日々を綴った『別れの儀式』を出版します。1986年、パリでこの世を去り、その葬儀には世界中から多くの女性たちが駆けつけました。2008年には、彼女の功績を記念して「シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞(女性の自由のための賞)」が創設されています。