
一方その頃、ガンディーはダンディ行進(ダンディ・ヤートラー)に向けた準備を着々と進めていた。同じ時期、サルダール・パテルは荷物を肩に担ぎながら村から村へと巡り、情熱あふれる演説で人々の心に火をつけていた。パテルは民衆に対してこう語った――市民的不服従運動では、納税の拒否、地代の不払い、酒類販売の禁止、塩のサティヤーグラハ(非暴力抵抗)、森林サティヤーグラハ、大麻や外国製布地を扱う店へのボイコット、政府運営の学校・大学・裁判所へのボイコット、さらに政府の諸計画への不協力などが展開されるだろう、と。
演説禁止命令と逮捕
パテルの演説を通じて、市民的不服従運動が何を意味するのかが次第に人々の心に浸透していった。この民衆の覚醒にイギリス植民地政府は恐れを抱き、パテルの演説活動を禁止しようとした。しかしサルダールは決して活動を止めなかった。ダンディ行進の開始まで、もう7日しか残されていなかった。
1930年3月7日、サルダールはボルサード近郊のラス村で大規模な公開集会に演説するため訪れた。ところが集会に向かおうとした瞬間、行政判事(マジストレート)が彼を止め、「演説を行ってはならない」と命じたのだ。サルダールはこの命令に従うことを毅然として拒んだ。その結果、彼はただちにボルサードへ連行され、3ヶ月の禁錮刑を言い渡された。ラス村ではついに一言も演説できないままだったが、それでもサルダールはこの処罰を喜んで受け入れたのである。
国中に燃え上がる怒り
かつてロンドン中にその名を轟かせた一人の青年が、今や自らの祖国において、海の向こうからやって来た白人支配者たちの手で囚人として捕らえられた。この報せが国民に届くや否や、怒りの炎は国中に一気に燃え広がった。各地で座り込み、デモ行進、公開集会が相次ぎ、抗議の声がとどろいた。
アーメダバードでの7万5千人の誓い
アーメダバードでは巨大な公開集会が開催された。この集会で7万5千人の人々が一斉に声を上げ、こう誓いを立てた――「国が独立するその日まで闘い続け、真理と非暴力の道を歩み、不正には決して屈しない」。サルダールが演説できなかったラス村からも500人がこの集会に駆けつけ、自分たちもサティヤーグラハに積極的に参加することを固く誓った。
頂点に達した人気とダンディ行進の出発
サルダール・パテルの人気はまさに頂点に達していた。何百人もの人々が、彼の歩む道に従うために官職を辞めた。これらの辞職こそが、人々が「指導者」をどれほど深く愛していたかを雄弁に物語っていた。
そして1930年3月12日、ガンディーは79人の同志とともに、サバルマティ・アシュラムから海岸の村ダンディへ向けて徒歩の長い旅を開始した。
獄中からの祈り、そして塩法破壊
ガンディーが出発したまさにその時、獄中にいたサルダール・パテルは入浴と瞑想を済ませた後、『バガヴァッド・ギーター』を静かに誦み、神に祈りを捧げていた。「どうかガンディーの旅が成功し、インド独立への道が切り開かれますように」――獄中にありながら、彼の思いは行進する同志たちと共にあった。
ガンディーは約200マイル(約320キロ)に及ぶ行程を24日間で完歩し、1930年4月5日、ついにダンディの地へ到着した。翌4月6日、身を清めた後、ガンディーは海水から塩を作り出すことで、悪名高い塩法を破ったのである。
こうしてダンディ行進が世界にその名声を轟かせることとなったが、その栄光の陰には、自由のために自らの自由を投げ打ったサルダール・パテルの献身的な苦行があったことを、私たちは忘れてはならない。