歴史上の人物

17. チャウハン帝国の民に嫌がらせするなら、ロバの腹に縫い込んでやる!

17. チャウハン帝国の民に嫌がらせするなら、ロバの腹に縫い込んでやる!

前回までのエピソードでは、プリトヴィラージ・チャウハン(Prithviraj Chauhan)の王妃たちについてお話ししてきました。今回はいよいよ、彼の戦争と勝利の数々に迫ります。西暦1182年、プリトヴィラージはバンダナカ族を鎮圧し、その勢力を飛躍的に高めました。このとき彼はわずか16歳でした。増大した権力を背景に、若き王者は帝国の版図拡大へと乗り出していきます。

7万の騎兵を擁する強大な軍団

チャウハン朝の軍には、多数の騎兵や歩兵が徴募されました。プリトヴィラージが王位に就いた時点で、その軍はすでに7万の騎兵を擁しており、この数字は時代とともに増加し続けました。

マンドールの服属とジャンムーへの遠征

プリトヴィラージの治世には、マンドールのパディハール(Padihar)支配者がアジュメールのチャウハン朝に従属するようになりました。チャウハン朝勃興期には、サパダラクシャのチャウハン支配者たちがグルジャラ・プラティハーラ朝の宗主権下に置かれていたことを思えば、大きな逆転です。一部の記録によれば、マンドールのパディハール王はプリトヴィラージに敗れた後、娘のジャタン・カンワールを彼に嫁がせたといい、文献によってはこの王の名をチャンドラセーン・パディハールとしています。

『タバカーテ・ナーシリー』によれば、ジャンムーの支配者ヴィジャイラージとプリトヴィラージの関係は良好ではなく、プリトヴィラージの軍はジャンムーを攻撃して略奪を行いました。このことから、当時のチャウハン国家の版図が、デリーを遥かに越えてジャンムー方面まで達していたことが推測されます。

『ハンミール・マハーカーヴィヤ』では、ジャンムーは「ガーティカ地方」と呼ばれています。また『プラバンダ・コーシュ』には、宰相カイマースが「ジャンムー王と敵対すべきではない」と諫言したものの、プリトヴィラージはこれに耳を貸さなかったと記されており、一部の文献ではジャンムー王の名をチャクラデーヴァとしています。

第二次タラインの戦いとジャンムー・カーングラーの王

『プリトヴィラージ・ラーソー』には、カーングラーの王ハーフリー・ライーが第二次タラインの戦いでムハンマド・ゴーリー側についたと記されています。一方、別の文献では、この戦いでジャンムー王がプリトヴィラージの家臣チャームンダ・ライー・ダヒマーによって討ち取られたと伝えられ、さらにハーフリー・ライーをジャンムー王とする記録も存在します。

これらの史料を総合すれば、ジャンムーあるいはカーングラーの王がプリトヴィラージと敵対し、戦場で彼の将軍の手にかかって命を落とした、と結論づけることができるでしょう。

版図の拡大と三大勢力との接触

度重なる戦争と勝利により、プリトヴィラージの王国は、北西部ではイスラム勢力、南西部ではチャウルキヤ朝、東部ではチャンデーラ朝と国境を接するようになりました。なお、チャンデーラ朝の王国は、ブンデルカンド、ジェージャカブークティ、マホーバー国家とも呼ばれます。

チャウハン朝対チャウルキヤ朝、因縁の対決

プリトヴィラージの治世中、チャウハン朝とチャウルキヤ朝の対立が再燃しました。『プリトヴィラージ・ラーソー』に語られる開戦理由には歴史的根拠がないとされますが、両王朝の敵意が数百年にわたり続いてきた事実は変わりません。しかもプリトヴィラージの領土拡張政策により、アーブー周辺で両国の国境が接し始めていたのです。

ここに立つのは、野心に満ちた二人の王――チャウハン朝のプリトヴィラージ3世と、チャウルキヤ朝のビーマデーヴァ2世です。衝突はもはや不可避でした。『カトラガッチャ・パッターワリー』には西暦1187年のグジャラート遠征が記され、これはヴェーラーワル碑文によって裏付けられています(一部の史料では西暦1184年としています)。この戦争でチャウルキヤ朝は敗北しました。

「ロバの腹に縫い込んでやる」――条約を守った男

チャウルキヤ朝の大臣ジャグデーヴ・プラティハーラの懸命な尽力により、両王朝の間にようやく講和条約が締結され、チャウルキヤ朝は戦争賠償金として多額の資金をプリトヴィラージに支払いました。

ところが『カトラガッチャ・パッターワリー』によると、戦後のあるとき、アジュメールの裕福な商人たちがグジャラートを訪れ、現地の高官ダンダナーヤカが彼らから巨額の金銭を巻き上げようとしたのです。これを知ったジャグデーヴは激怒しました。自らの努力で結ばれた条約を、こんな行為で壊されたくはなかったのです。

そこでジャグデーヴはダンダナーヤカにこう脅しをかけました。
「もしチャウハン帝国の民に嫌がらせをするようなことがあれば、お前をロバの腹の中に縫い込んでやるぞ」
この逸話は、この時期、チャウルキヤ朝にとってチャウハン朝との和平維持がいかに死活問題であったかを雄弁に物語っています。

また、ヴェーラーワルから出土した西暦1244年のジャグデーヴ・プラティハーラの文書は、それ以前にチャウルキヤ朝がプリトヴィラージに幾度も打ち破られていたことを示しています。この遠征でプリトヴィラージは、西暦1187年にアーブーのパラマーラ朝の君主ダラヴァルシャをも撃破しました。

次回予告――王プリトヴィラージ・チャウハンの胸にハゲワシが舞い降り、肉をついばみ始めた……。

著者:モハンラール・グプタ博士