歴史上の人物

ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(〜1434年)―リトアニア大公にしてポーランド王、ヤギェウォ朝の祖

ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(〜1434年)―リトアニア大公にしてポーランド王、ヤギェウォ朝の祖

ミハウ・ゴドレフスキ画によるヴワディスワフ・ヤギェウォの肖像。

ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Władysław II Jagiełło)

リトアニア大公でありポーランド国王、そしてヤギェウォ朝の創始者。ゲディミナス家出身の公アルギルダス(オリェルド)の子として生まれた。正確な生年は不明だが、従来は1352年頃とされてきた。ところが現在では、それより10歳ほど若い1362年頃の生まれで、15歳前後の少年だった頃に大公位を継いだ、という見方が有力になっている。

1386年、ヤギェウォは若きポーランド女王ヤドヴィガ・アンジュエンスカと結婚した。ポーランド貴族たちとの取り決めのもと、彼は洗礼を受けること、リトアニアの正式なキリスト教化を進めること、そしてリトアニア国家とポーランドの連合を実現することに同意し、その見返りとして王冠を手にした。このとき結ばれた連合の法的性格をめぐっては、今日なおポーランドとリトアニア両国の歴史家たちの間で激しい論争が続いている。

ヤギェウォは洗礼名として「ヴワディスワフ」を受け、1386年3月4日に正式に即位した。1399年にヤドヴィガが死去した後、彼はさらに3度結婚している――順にツェリエのアンナ、グラノフスカのエルジュビェタ、そしてホルシャニのゾフィアである。終生、男子の誕生を待ち望み続けたヤギェウォだったが、最初の男子となるヴワディスワフが生まれたのは、彼が60歳を過ぎてからのことであった。このため、ゾフィア王妃の貞節や子どもの真の血統を疑う声も当時は少なくなかったという。

彼の最大の功績として挙げられるのが、ドイツ騎士団との戦争における勝利である。とりわけ1410年のグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)では、「無敵」と謳われた騎士団の神話を打ち砕き、中欧の歴史の流れを大きく変える決定的な勝利を収めた。晩年、彼は夜鳴きうぐいすの歌声に耳を傾けている最中に風邪をひき、1434年にその生涯を閉じたと伝えられている。