歴史上の人物

ベレール・ド・ヴィユーザック・ベルトラン(1755年〜1841年)― フランス革命を生きた弁護士・政治家の生涯

ベレール・ド・ヴィユーザック・ベルトラン(1755年〜1841年)― フランス革命を生きた弁護士・政治家の生涯

トゥールーズの弁護士から国民議会へ

ベレール・ド・ヴィユーザック・ベルトラン(1755年〜1841年)は、南仏オート=ピレネー県の中心都市トゥールーズで活動した弁護士として出発しました。優れた弁舌と法律知識で名を知られた彼は、1789年の三部会開催に際して第三身分の代表に選出され、フランス革命の政治的舞台へと足を踏み入れます。

その後、彼はオート=ピレネー県の破毀院(カッサシオン裁判所)の判事を務め、法曹人としての地位を確立していきました。

国民公会と山岳派の一員として

革命が進展すると、ベルトランは国民公会の議員となり、急進派である「山岳派(モンタニャール)」に属します。彼の政治生命における最も有名な瞬間の一つは、国王ルイ16世の裁判です。彼はこの裁判の間、国民公会の議長を務め、歴史的な場面の中心に立ちました。

公安委員会での活躍

公安委員会のメンバーとして、ベルトランは外交および海軍に関する業務において重要な役割を果たしました。革命政府の危機的な状況下で、対外戦争や海軍政策の立案・遂行に関わり、公安委員会の中核を担う一人となったのです。

テルミドール9日の転換点

ベルトランはロベスピエールと良好な関係を保っていましたが、1794年7月27日(共和暦テルミドール9日)、ロベスピエールに対して決定的な対決の姿勢を示し、その失脚に加担しました。しかし皮肉にも、この政変の後、今度は彼自身がコロー・デルボワらとともに追放(流刑)の罪に問われることになります。

ところが、無産者層(サンキュロット)たちの助けを得て、彼は逮捕を免れ、逃亡に成功しました。

静かな晩年と王政復古

統領政府期および帝政期には表舞台から姿を消し、目立たない生活を送りました。しかし1815年の王政復古により、ルイ18世が発布した「弑逆者(レジサイド)追放令」のリストに彼の名が挙げられ、再び祖国を追われる身となります。こうして、フランス革命の激動を駆け抜けた男は、亡命先の地で1841年にその生涯を閉じました。