
カロリーヌ・ボナパルト(Caroline Bonaparte、1782年3月25日 – 1839年5月18日)は、フランス皇帝ナポレオン1世の末の妹であり、ナポレオン麾下の名将ジョアシャン・ミュラの妻としてナポリ王妃の座に就いた女性です。野心家として知られ、夫とともに王国の防衛に奔走しましたが、最後までそれを守り切ることはできませんでした。
コルシカ島で生まれた末の妹
カロリーヌは1782年、コルシカ島のアジャクシオで、弁護士カルロ・ブオナパルテとレティツィア・ラモリーノの間に生まれました。兄弟姉妹の中では三番目の妹にあたり、兄ナポレオンがフランス革命の混乱の中で頭角を現す姿を幼少期から間近に見て育ちました。教育はフランス本土のサン=ジェルマン・アン・レーにある寄宿学校で受けたとされています。
ミュラとの結婚
1800年1月20日、17歳のカロリーヌは、当時ナポレオンの副官として活躍していた騎兵将軍ジョアシャン・ミュラと結婚しました。政略結婚の色合いが濃い縁組でしたが、夫妻の間には4人の子どもが生まれました。美貌と知性を兼ね備えたカロリーヌは、次第に政治への関心を深めていきます。
クレーヴュ大公妃からナポリ王妃へ
1806年、ナポレオンはミュラをクレーヴュおよびベルク大公に任じ、カロリーヌは大公妃となりました。さらに1808年、ミュラがナポリ王に即位すると、カロリーヌはナポリ王妃として南イタリアの宮廷に君臨します。彼女は儀礼的な王妃にとどまらず、美術品の収集や宮廷文化の振興にも力を注ぎました。
「永遠の陰謀家」と呼ばれて
同時代人からは「永遠の陰謀家」と評されたカロリーヌは、夫ミュラの王位維持のためなら手段を選ばない野心家でした。ナポレオンの失脚が近づくと、ナポリ王国を守るべくオーストリアやイギリスとの交渉に動くなど、巧みな外交工作を展開したといわれています。しかし、その努力もついに実を結ぶことはありませんでした。
王国の崩壊と亡命、そして晩年
1815年、ワーテルローの敗北後、ミュラは王位奪還を試みて捕らえられ、ピッツォで銃殺されました。カロリーヌは子どもたちを連れてオーストリアへ亡命し、「リッポーナ伯爵夫人」の変名を用いて静かに暮らしました。晩年はフィレンツェで過ごし、1839年5月18日、56歳でこの世を去りました。
歴史に残る評価
カロリーヌ・ボナパルトは、ナポレオン一族の中でも最も野心が強かった人物の一人として記憶されています。兄の権勢を背景に王妃の座まで上り詰めながら、時代の激動には抗えず、王国と夫を失った彼女の人生は、ナポレオン時代の栄光と没落を象徴する物語といえるでしょう。