歴史上の人物

フランス王シャルル6世「狂気王」(1368年〜1422年) — 王国を内乱へ導いた悲劇の君主

フランス王シャルル6世「狂気王」(1368年〜1422年) — 王国を内乱へ導いた悲劇の君主

シャルル6世とはどんな王か

シャルル6世(Charles VI、1368年〜1422年)は、賢明な統治で知られた父シャルル5世の息子として生まれました。当初は「愛される王(le Bien-Aimé)」と呼ばれていましたが、後にその呼び名は「愚者王(le Fol)」へと変わってしまいます。この称号の変遷こそが、彼の波乱に満ちた治世を象徴しています。

叔父たちの摂政政治と「マルムーゼ」の復帰

1380年、父の死によりわずか11歳で即位したシャルル6世は、4人の叔父たち(アンジュー公、ベリー公、ブルゴーニュ公、ブルボン公)の後見下に置かれました。しかし彼らは摂政の立場を利用し、王国の財源を私利私欲のために浪費しました。成長したシャルル6世は叔父たちを追放し、父シャルル5世が重用した有能な側近集団「マルムーゼ(Marmousets)」を呼び戻して王権の再建を図りました。

1392年 — 狂気の発症

ところが1392年、ル・マン近郊の森を行軍中だった王は突如として激しい錯乱状態に陥り、従者を襲撃するという事件が起こります。これ以降、彼は狂気の発作を繰り返すようになりました。現代の医学的見地からは、双極性障害(旧・躁うつ病)であった可能性が高いと考えられています。発作と寛解を繰り返す不安定な王の状態は、フランス王国の運命を大きく左右することになります。

アルマニャック派対ブルゴーニュ派の内戦

王の失政と無能力化を背景に、王国の実権をめぐって貴族たちは二大勢力に分裂しました。一方はオルレアン公ルイを盟主とするアルマニャック派、他方は無畏公ジャン1世率いるブルゴーニュ派です。両派の対立はやがて武力衝突へとエスカレートし、フランスは深刻な内戦状態に陥ります。1407年のオルレアン公暗殺事件は、この抗争を決定的なものにしました。

アジャンクールの惨敗とトロワ条約

フランスの内紛を見て取ったイングランドは、百年戦争の敵対行動を再開します。1415年、ヘンリー5世率いるイングランド軍はアジャンクールの戦いでフランス騎士団に壊滅的な打撃を与えました。追い詰められたシャルル6世は1420年、トロワ条約の調印を余儀なくされます。この条約により、実子であるシャルル7世に代わって、イングランド王ヘンリー5世とその子孫がフランス王位継承者と認められたのです。これは事実上、ヴァロワ朝断絶の危機を意味する屈辱的な内容でした。

晩年と歴史的評価

シャルル6世は1422年に死去しました。彼の治世は、父シャルル5世が築き上げた王権の復興を自らの手で崩壊させた時代として記憶されています。しかし、その狂気が本人の意思とは無関係に王国を混乱へ導いたことを考えると、彼自身もまた時代の犠牲者だったと言えるでしょう。王位継承を巡る混乱は、のちにジャンヌ・ダルクの登場とシャルル7世によるフランス再建へとつながっていきます。

関連するフランス王

先代:シャルル5世(賢王、在位1364年〜1380年)
次代:シャルル7世(勝利王、在位1422年〜1461年)