アランソン公フランソワは、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの末子として生まれた王子です。小柄な体格ながら「ヘラクレス」という名で洗礼を受けましたが、1560年に兄フランソワ2世が早世すると、その名を継いで「フランソワ」と呼ばれるようになりました。
兄への嫉妬と対照的な兄弟
母后カトリーヌに寵愛される兄アンジュー公アンリ(後のアンリ3世)に対し、フランソワは激しい嫉妬心を抱く反抗的な王子でした。性格も容貌も兄とは正反対で、天然痘の痕跡で深く傷んだ顔は「大変醜い」と評されています。
「不満派」の旗頭として
シャルル9世の宮廷では、貴族たちの不満を束ねる「不満派(マルコンタン)」の指導的地位に立ちます。ポーランド王位についた兄アンリに代わって自らが王位継承者となることを画策し、ナバラ王アンリと共謀しました。しかし計画は露見し、逮捕されて宮廷内で監視下に置かれることとなります。
パリ脱出と第五次ユグノー戦争
その後、兄アンリ3世の宮廷で受けた屈辱に耐えかねたフランソワは、城壁の穴を抜けてパリを脱走。ナバラ側のユグノー(プロテスタント)勢力と合流し、第五次ユグノー戦争が勃発しました。この戦乱でフランソワは「モンスールの和約」(1576年)を勝ち取り、プロテスタントの礼拝の自由が回復されます。
和約後は兄と和解して宮廷へ凱旋し、政治的権力の絶頂期を迎えます。この頃には、22歳年上のイングランド女王エリザベス1世との結婚話まで持ち上がりました。
ネーデルラントの野望と突然の死
1579年、フランソワはオラニエ公ウィレムに招かれ、ネーデルラント諸州の君主となるべく渡海します。しかしそこでも思うように成果を挙げられず、1583年のアントウェルペンでの軍事的失敗(いわゆる「フランス人の怒り」事件)により威信を失いました。失意の帰国後、1584年に結核のため急死。わずか29歳でした。彼の死によってヴァロワ家の男系継承者の望みは絶たれ、プロテスタントのナバラ王アンリが王位継承者となるなど、フランス史の大きな転換点となりました。