
フランソワ1世の次男として生まれたアンリ2世は、1547年に父の死去を受けてフランス王に即位しました。ヴァロワ朝を代表する王の一人であり、その私生活にも政治にも、正妃カトリーヌ・ド・メディシスと愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエという二人の女性が大きな影響を及ぼしていました。
二人の女性 ― 王妃と愛妾
アンリ2世の宮廷は、メディチ家出身の王妃カトリーヌ・ド・メディシスと、王から長年にわたり寵愛を受けたディアーヌ・ド・ポワチエという対照的な二人の女性によって彩られていました。両者は単なる伴侶や恋人にとどまらず、宮廷人事や政治的決定にも影響力を発揮し、当時のフランス宮廷の権力構造を特徴づける存在となりました。
プロテスタントへの厳しい弾圧
治世中のフランスでは、宗教改革の波が急速に広がり、プロテスタント(ユグノー)の勢力が拡大しつつありました。アンリ2世はこれに対して極めて強硬な姿勢で臨み、特設法廷「燃える部屋」の設置などを通じて信者たちを徹底的に弾圧しました。この宗教政策は、後のユグノー戦争(1562年〜1598年)の遠因となったとされています。
対外戦争とカレーの奪還
対外政策においては、まずイングランドとの戦いでカレーとブローニュを奪還することに成功しました。特に1558年のカレー回復は、百年戦争以来イングランドの手にあった大陸側の要衝を取り戻した大きな成果として高く評価されます。その一方で、神聖ローマ皇帝カール5世、さらにはその子スペイン王フェリペ2世との戦争では苦戦を強いられ、1557年のサン=カンタンの戦いでフランス軍は壊滅的な敗北を喫しました。
馬上槍試合による悲劇的な最期
1559年、娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の婚礼を祝うため、パリのサンタントワーヌ門付近(現在のヴォージュ広場界隈)で祝賀の馬上槍試合が開催されました。自ら試合に臨んだアンリ2世は、対戦相手モンゴムリ伯ガブリエルの折れた槍の破片が目に刺さるという不運な事故に見舞われます。意識が戻らないまま約10日後に崩御し、その死はフランス王家に大きな衝撃を与えました。
王位は若い息子フランソワ2世へと受け継がれましたが、これ以降、王妃カトリーヌ・ド・メディシスが政治の表舞台に立つこととなり、フランス史は新たな局面を迎えます。