歴史上の人物

ブルボン=コンデ公アンリ1世(1552–1588):ユグノー戦争期のプロテスタント盟主

ブルボン=コンデ公アンリ1世(1552–1588):ユグノー戦争期のプロテスタント盟主

ブルボン=コンデ公アンリ1世(Henri Ier de Bourbon-Condé、1552年12月29日 – 1588年3月5日)は、フランス宗教戦争期におけるユグノー(フランス・プロテスタント)陣営の重要な指導者の一人です。父はコンデ公ルイ1世(ルイ・ド・ブルボン=コンデ)。王族ブルボン家の分家を継ぎ、若くして激動の時代の中心に立つことになりました。

ギーズ家への深い遺恨

アンリは幼くして父を亡くしました。父ルイ1世は1569年のジャルナックの戦いで敗北し、降伏したにもかかわらずギーズ公の手で射殺されたうえ、その遺体は嘲笑を浴びながらロバに乗せられて運ばれたと伝えられます。この屈辱的な仕打ちは、アンリの心にギーズ家、そしてアンジュー公(後の国王アンリ3世)への消えることのない恨みを刻み込みました。

サン・バルテルミの虐殺と強制された改宗

1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺の際、アンリはたまたまパリに居合わせており、命を狙われる危機に瀕しました。生き延びるため、彼はやむなくプロテスタント信仰を放棄し、カトリックへの改宗を余儀なくされます。その後、従兄にあたるナバラ王(後のアンリ4世)とともに宮廷に留め置かれ、事実上の軟禁状態に置かれました。

南へ逃れ、ユグノー軍の総帥へ

1575年、アンリは宮廷からの脱出に成功し、南フランスへ逃れます。そこで彼は再びプロテスタントの信仰を公言し、第4次・第5次・第6次宗教戦争においてユグノー軍の指揮官として立ち上がりました。ナバラ王と並んでプロテスタント陣営の二本柱となり、カトリック勢力との戦いを主導していきます。

結婚と悲劇的な最期

最初の妻マリー・ド・クレーヴは絶世の美女として名高く、当時アンジュー公だった後のアンリ3世をも夢中にさせたといわれています。マリーが若くして世を去ると、アンリ3世は深い憂鬱状態に陥ったと伝えられます。

その後アンリ1世はシャルロット・カトリーヌ・ド・ラ・トレモイユと再婚しましたが、不貞をめぐる確執などから、彼女が夫の暗殺に関与した可能性も指摘されています。1588年3月5日、アンリはサン・ジャン・ダングレイで毒殺され、35年の短い生涯を閉じました。家督は息子アンリ2世が継ぎ、その孫にあたる「大コンデ」ことルイ2世へと続く名門の基礎が築かれることになります。