
貴族出身の革命家
マリー=ジャン・エロー・ド・セシェルは、パリ高等法院の検事総長を父に持つ貴族の家系に生まれ、弁護士としての道を歩んだ人物である。マリー・アントワネットの後押しを受けた彼は、ルイ16世によって破毀院(カッサシオン法院)パリ部門の総裁に任命され、若くして法曹界の頂点に立った。
立法議会から国民公会へ
革命が本格化すると、エロー・ド・セシェルは立法議会、続いて国民公会に議席を得た。当初はジロンド派に属していたが、やがて急進的な山岳派へと鞍替えする。1792年には「祖国は危機にあり」という有名な布告を発し、外敵の脅威に立ち向かうべく国民全体を動員する口火を切った。
1793年憲法の起草者
公安委員会のメンバーとして、彼は1793年憲法(通称ジャコバン憲法)の起草を主導した。この憲法には男子普通選挙や生存権の保障といった当時としては極めて先進的な理念が盛り込まれていたが、戦時下の混乱の中で施行されることはなく、幻の憲法となった。
ダントンと共に処刑
しかしながら、その華麗な経歴と貴族的な物腰は、ロベスピエールやサン=ジュストの強い反感を買うこととなった。エロー・ド・セシェルはダントン派の一員とみなされ、1794年4月5日、ダントンらとともにギロチンの露と消えた。享年35歳。革命に身を捧げた貴族の波乱に満ちた生涯であった。