マルチェッロ・バッチャレッリが描いたヤン・オルブラハトの肖像画。
ヤン・オルブラハト(Jan Olbracht、1459年12月27日 – 1501年6月17日)は、1492年から1501年までポーランド王位に就いたヤギェウォ朝の君主です。カジミェシュ4世とその妃エルジュビェタ・ラクシャンカの三男としてクラクフに生まれました。幼少期には歴史家ヤン・ドゥウゴシュや人文主義者フィリップ・ブオナッコルシ(カッリマコス)といった、当時第一級の教育者たちの手で育てられています。
王位継承への道
1484年、兄である聖カジミェシュ王子が亡くなると、父王はヤン・オルブラハトをポーランド王位の後継者として育成し始めました。1490年には一時、兄ヴワディスワフとハンガリー王位を争いましたが、これに敗れた見返りとしてグウォグフ公領を与えられ、1491年から1498年までそこの公爵として統治しました。
即位と国内統治
1492年に父カジミェシュ4世が死去すると、ヤンは兄弟たちやプウォツク公ヤヌシュ2世とポーランド王冠をめぐって争いましたが、母后や貴族、都市市民層の支持を得て勝利を収めました。戴冠式は1492年9月30日にクラクフで執り行われています。一方、リトアニア大公国の統治権は弟アレクサンデルに委ねられました。
即位後最初の数年間で、ヤンはザトル公国とプウォツク公領を王国へ併合することに成功します。さらに1499年には、弟アレクサンデルとの間でヴィリニュスにおいて新たなポーランド・リトアニア連合を締結し、両国の関係強化を図りました。
貴族優遇の身分制政策
ポーランド王として、ヤン・オルブラハトは貴族(シュラフタ)の地位を大きく強化しました。1493年には農民の移住の自由を制限し、1496年には「ピョートルクフ特権」を発布して、教会の要職への就任を貴族に独占させました。同時に都市市民が土地財産を取得することを禁じ、身分秩序の固定化を進めたのです。
モルダヴィア遠征の大敗
ヤンは、オスマン帝国の勢力圏に置かれていたモルダヴィアをポーランドの支配下に収めようと画策しました。1497年、キリアとビャウグルト(現ウクライナのビルホロド=ドニストロフスキー)の奪還を目指す遠征を組織し、弟ジグムントをモルダヴィアの王座に就ける構想もあったと考えられています。しかしこの遠征は完全な失敗に終わり、撤退中の王はコジミンで壊滅的な打撃を被りました。この惨敗は「オルブラハト王のもとで貴族は死んだ」という諺を生むこととなりました。また、対トルコ関係の悪化の帰結として、1498年にはオスマン帝国によるポーランド侵攻が起こっています。
私生活と最期
ヤン・オルブラハトは豪快な生活ぶりで知られ、美食と快適な暮らし、新しい娯楽を何よりも好みました。生涯結婚することはありませんでしたが、多くの愛人を持っていたといわれます。おそらく1497年頃、彼女たちの一人から感染した病気がやがて死につながったとされ、梅毒が死因だったのではないかと推測されています。
1501年6月17日、ヤン・オルブラハトはトルンでこの世を去りました。当時彼は、数年前から1466年の第二次トルンの和約の条項に異議を唱え始めていたドイツ騎士団との戦争に備えているところでした。