
ルイ1世(敬虔王、フランス語では「ル・ドゥボネール」=善良王とも呼ばれます)は、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)と王妃ヒルデガルトの間に生まれた三男であり、成人まで育った唯一の息子でした。778年に生まれ、840年に亡くなるまで、西ヨーロッパ史の大きな転換期を生きた君主です。
アキテーヌ王から共同皇帝へ
ルイは781年、わずか3歳にしてアキテーヌ王に任命されました。その後、813年には父カール大帝によって帝位の共同統治者に据えられ、翌814年の大帝の死により、フランク王および西方皇帝(ローマ皇帝位)を単独で継承することとなりました。
最初の結婚と三人の息子
王妃エルマンガルドとの間には三人の息子が生まれました。長男ロタール1世は帝位の共同統治者とされ、帝国の唯一の正統な後継者とみなされました。次男ピピン1世と三男ルートヴィヒ(ドイツ人王、後の東フランク王)は、兄ロタールに服従することが定められました。
ユディトとの再婚と帝国分割問題
エルマンガルドの死後、ルイ1世は818年にバイエルン出身の美貌で知られるユディトと再婚しました。この結婚により823年に四男シャルル(後の禿頭王シャルル2世)が誕生すると、状況は一変します。ルイは新たな領土分割計画において、幼いシャルルに所領の大部分を与えようとしたのです。
息子たちの反乱と失脚、そして復位
この決定に強く反発した三人の年長の息子たちは、不満を抱く貴族層を味方につけ、父帝に対して蜂起しました。830年から831年にかけて、ルイ1世は実権をほぼ完全に失うことになります。さらに833年には長男ロタールによって帝位を追われるという屈辱的な事態に陥りました。しかし835年には、他の息子たちの支援によって復位を果たしています。
死去と帝国分裂への道
840年、ルイ1世はその生涯を閉じました。彼の死後、息子たちの対立は激化し、843年のヴェルダン条約による帝国三分割へとつながっていきます。この分割こそが、後のフランス・ドイツ・イタリアという国家の原型を形作る重要な転換点となったのです。
関連人物
- カール大帝:フランク王にして西方皇帝。ルイ1世の父であり、中世ヨーロッパの基礎を築いた偉大な君主。
- シャルル2世(禿頭王):ルイ1世とユディトの間に生まれた四男。後に西フランク王国(フランスの前身)の初代国王となります。