
ルイ11世(Louis XI、1423年~1483年)は、フランス王シャルル7世と王妃マリー・ダンジューの息子として生まれました。1436年にスコットランド王女マーガレットと結婚し、その後1451年にサヴォイア公爵家出身のシャルロットと再婚しています。
王太子時代の反逆と亡命
王太子(ドーファン)時代のルイは、父王シャルル7世とたびたび衝突し、王国政治に大きな混乱をもたらしました。ついには父王に追われる形となり、ブルゴーニュ公フィリップ善良公(フィリップ・ル・ボン)の宮廷へ亡命せざるを得なくなりました。
即位と大諸侯との対立――公益同盟の乱
1461年に即位したルイ11世は、王権強化と中央集権化を推し進めたため、即位早々から大諸侯たちの強い不満に直面することになりました。1465年には、弟であるベリー公シャルルを盟主とする「公益同盟」が結成され、封建領主たちが一斉に国王へ反旗を翻したのです。
同年、ルイ11世はモンレリーの戦いで同盟軍と激突しました。この戦い自体は決定的な勝利とは言えないものでしたが、国王は巧みな外交と懐柔策によって同盟を内部から切り崩し、この危機を乗り越えていきました。
ペロンヌの会見――屈辱的な幽閉
1468年、ルイ11世はブルゴーニュ公シャルル突進公(シャルル・ル・テメレール)との会見のためペロンヌを訪れましたが、そこで突進公によって幽閉されるという屈辱を味わいます。窮地に立たされた国王は、突進公側に大幅な譲歩を認める屈辱的な条約への調印を余儀なくされました。しかし、解放されたルイ11世はただちにこの条約を破棄し、履行を拒否しました。
宿敵シャルル突進公との最終対決
1475年、ルイ11世はイングランド王エドワード4世とピキニーの和約を締結し、イングランドと結ぶシャルル突進公を外交的に孤立させることに成功しました。
その後、突進公は1476年にスイス軍を相手にグランソンの戦いとモラの戦いで連敗を喫し、翌1477年にはナンシー包囲戦で戦死しました。宿敵を失ったルイ11世はただちに兵を進め、ブルゴーニュ公国とブルゴーニュ伯国(フランシュ=コンテ)、さらにピカルディ地方をフランス王国へ併合しました。
ルイ11世の治世の意義
ルイ11世は、狡猾とも評される外交手腕と粘り強い駆け引きによって、強大だった封建諸侯の勢力を削ぎ、フランス王権の強化と国土の拡大を成し遂げました。その多岐にわたる謀略から「万能蜘蛛」とも呼ばれ、中世フランスから近世の絶対王政へと至る転換点を築いた君主として高く評価されています。
歴代フランス王
前王:シャルル7世(勝利王) / 次王:シャルル8世
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