フランス革命の「人民の友」
ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 – 1793年7月13日)は、フランス革命期に最も過激な声として知られた医師・ジャーナリスト・政治家である。スイス・ヌーシャテル地方に生まれ、医学を修めた後、パリやロンドンで医師として活動した。一時期は王弟アルトワ伯爵の近衛隊付き医師を務め、旧体制側との縁もあったとされる。
『人民の友』と扇動ジャーナリズム
1789年の革命勃発後、マラーは自らの手で新聞『人民の友(L'Ami du Peuple)』を創刊し、執筆から発行までほぼ一人で担った。孤独で猜疑心の強い人物だった彼は、しばしば地下に潜りながらも筆を止めることなく、記事は極めて暴力的かつ告発的なものだった。「裏切り者」への断固たる処罰を訴えるその論調は、1792年9月の監獄虐殺(九月虐殺)を助長したとして強く非難されている。
サンキュロットの擁護者として
マラーはコルドリエ倶楽部に属し、都市下層民である無套褲漢(サンキュロット)の利益を守るために活動した。1792年8月にはパリ・コミューンの一員となり、同年9月に共和政が宣言されると国民公会議員に選出されている。
ジロンド派失脚の立役者
国民公会では、穏健なジロンド派と対立する山岳派の急先鋒として活躍した。1793年4月、ジロンド派によって裁判にかけられたが、民衆の圧倒的な支持を受けて無罪となり、かえって人気を決定的なものとした。この勝利は同年6月初旬のジロンド派追放へとつながり、マラーはその重要な推進役となったのである。
浴槽での暗殺
しかし、その名声をさらに花開させる時間は残されていなかった。深刻な皮膚病に苦しんでいたマラーは、治療のため一日の大半を薬湯の入った浴槽の中で過ごしていた。1793年7月13日、ノルマンディー出身の若い女性シャルロット・コルデーが「裏切り者たちの名簿」を届けるという口実で面会し、浴槽内で彼を短剣で刺殺したのだ。
殉教者としての死とダヴィッドの絵画
マラーの死は革命派に大きな衝撃を与え、彼は「革命の殉教者」として祀り上げられた。画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの名作『暗殺されたマラー』は、実際には醜いと評判で、レプラ(ハンセン病)とも言われる皮膚疾患に苦しんでいた彼の姿を、聖人のように理想化して描いている。この絵画は今日でもフランス革命美術を象徴する作品であり続けている。