
エドゥアール・モルティエ(Adolphe-Édouard-Casimir-Joseph Mortier、1768年–1835年)は、ナポレオン時代のフランスを代表する軍人の一人であり、第一帝政期にフランス元帥の称号を与えられた人物である。革命戦争からナポレオン戦争、そして七月王政期の政界まで、激動の時代を軍人・政治家として生き抜いたその生涯は、近代フランスの歴史そのものを映し出している。
革命戦争での台頭
モルティエは1768年に北フランスのカトー=カンブレジで商人の息子として生まれた。1791年、フランス革命の混乱の中で北部義勇軍により大尉(キャプテン)に選出され、ここから彼の軍歴が始まる。1794年のフルリュスの戦いなど革命軍の諸戦役に参加して実績を重ね、やがてマッセナ将軍によって師団将軍(少将)に昇進させられた。この抜擢は、彼の冷静な指揮能力と兵卒からの信頼が高く評価された結果であった。
ナポレオン麾下での活躍
1804年、モルティエはナポレオンによって創設された最初のフランス元帥の一人に名を連ねた。1805年には近衛歩兵の指揮を任され、1807年のフリートラントの戦いでは左翼の指揮官としてロシア・プロイセン連合軍を撃破する勝利に貢献した。この功績によりトレヴィーゾ公爵に叙せられている。
1812年のロシア遠征では若年近衛隊(ヤングガード)を率いて従軍。撤退戦の過酷な状況下でも部隊の規律を保ち続けたことで知られる。1813年のザクセン方面作戦(ライプツィヒの戦いを含む一連の戦闘)にも参戦し、帝国防衛の要として戦い抜いた。
祖国防衛とパリの最後の戦い
1814年、連合軍がフランス本土へ侵攻すると、モルティエは老齢近衛隊(オールドガード)の指揮を委ねられた。数において圧倒的に劣る中で殿軍として奮戦し、首都パリ陥落の際には最後まで抵抗した将帥の一人となった。しかし翌1815年、ワーテルローの戦いの際には病のため戦列に立つことができず、皇帝最後の戦場に立ち会えなかったことは彼にとって大きな悔いとなった。
政界入りと悲劇的な最期
復古王政期を経た七月王政のもとでもモルティエは重用され、1830年から1831年にかけて駐露大使を務めた後、1834年には閣僚会議議長(首相格)としてフランス政府の頂点に立った。
しかしその栄光の日々は突然に終わりを迎える。1835年7月28日、国王ルイ・フィリップ1世の襲撃を企てたジュゼッペ・マルコ・フィエスキが仕掛けた「地獄の機械」と呼ばれる多連装爆弾装置がパリのブールドヴァール・デュ・タンプルで炸裂。国王は無事だったものの、モルティエは同席していた元帥たちとともに致命傷を負い、その場で絶命した。67歳であった。
革命の義勇兵から元帥、そして首相へと至ったモルティエの波乱に満ちた人生は、フランス史の転換点ごとに立ち会った稀有な軍人として、今日も記憶されている。