
三部会から革命政治の舞台へ
ジェローム・ペシオン・ド・ヴィルヌーヴ(Jérôme Pétion de Villeneuve、1756年12月3日-1794年6月18日)は、フランス革命期を代表する政治家の一人である。シャルトルで法律家として活動していた彼は、1789年の三部会召集に際して第三身分の代議員に選出され、一躍国政の舞台に立つこととなった。
ロベスピエールと並んだ「不屈の人」
続く制憲議会では最左翼に陣取り、盟友マクシミリアン・ロベスピエールとともに急進的な共和主義の旗手として頭角を現した。1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件で国王一家が拘束されて帰還すると、この二人は「不屈の人(インフレクシブル)」と「腐敗せざる人(アンコラプティブル)」と呼ばれるようになった。前者の異名がペシオンを指しており、当時の民衆からの高い人気を物語っている。
パリ市長と九月虐殺
1791年11月、彼はジャン・シルヴァン・バイイの後任としてパリ市長に選出され、やがてジロンド派へと接近していった。しかし1792年9月に発生した「九月虐殺」の際には、市長として獄中の王党派らへの襲撃を食い止めることができず、事態に対して中立的な姿勢を貫いたため、内外から厳しい批判を浴びることとなった。
国民公会での栄光と転落
その後、彼は国民公会の議長を務める一方で、ジャコバン・クラブにおいても指導的な役割を果たした。だが1793年6月2日、山岳派によるジロンド派の一斉粛清の対象に名を連ねると、逮捕を免れてパリを脱出。ノルマンディーで反パリの蜂起(連邦主義反乱)を起こそうとしたものの失敗に終わり、ボルドー近郊のサンテミリオンへと身を潜めた。
悲劇的な最期
追跡の手は容赦なく迫った。1794年6月18日、同志ビュゾーとともに自ら命を絶ったのである。数日後、森の中で発見された彼の遺体は、狼に半ば食い荒らされているのが見つかったという。「不屈の人」と讃えられた革命家の、あまりにも凄惨な最期であった。
ペシオンの波乱に満ちた生涯は、理想を掲げた者たちをも容赦なく飲み込んでいった、フランス革命という激動の時代を今に伝える象徴といえるだろう。