歴史上の人物

ジャン=マチュー=フィリベール・セリュリエ伯爵(1742年-1819年):「イタリアの処女」と呼ばれたナポレオンの元帥

セリュリエ伯爵の生涯

ジャン=マチュー=フィリベール・セリュリエ(Jean-Mathieu-Philibert Sérurier、1742年12月8日-1819年12月21日)は、フランス革命戦争からナポレオン時代にかけて活躍したフランスの将軍であり、後に帝国元帥に列せられた人物です。ラオン出身の職業軍人として、その実直な人柄と優れた指揮能力で知られました。

七年戦争と革命期の苦難

セリュリエは七年戦争(1756年-1763年)においてプロイセン軍との戦闘に従事し、その後も長年にわたり王立軍で勤務を重ねました。フランス革命後も軍務を続けますが、恐怖政治の時代には嫌疑をかけられて投獄されてしまいます。しかし、ポール・バラスの尽力によって解放され、再び軍隊への道を歩むこととなりました。

イタリア戦役とマントヴァ攻略

1796年、セリュリエはナポレオン・ボナパルト率いるイタリア方面軍に参加します。同戦役の帰趨を決めたマントヴァ包囲戦で重要な役割を担い、1797年初頭についに同市を攻略しました。この功績により、彼はイタリア戦役における有数の名将としてその名を馳せることになります。

「イタリアの処女」の異名

ナポレオンは、私欲や陰謀とは一切無縁の、実直で清廉な人格の持ち主であるセリュリエを深く信頼していました。略奪や不正が横行していた当時の軍隊において、ただ一人汚れなき姿勢を貫いた彼には、「イタリアの処女(La Vierge d'Italie)」という独特のあだ名が付けられました。この清廉さこそが、ナポレオンの厚い信頼を勝ち得た最大の要因だったのです。1804年には帝国元帥に任命され、栄誉を極めました。

百日天下と最期の忠誠

1815年の百日天下の間、セリュリエは再びナポレオンに忠誠を誓い、その許に留まりました。ワーテルローの戦いでの敗北後、鹵獲された軍旗や鷲旗が連合軍の戦利品となるのを防ぐため、アンヴァリッド(廃兵院)の中庭でそれらを焼き払うという悲愴な任務を担ったことでも知られています。1819年12月21日、パリにて77歳でこの世を去りました。その名は現在も凱旋門に刻まれています。