歴史上の人物

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754年~1838年)

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(1754年~1838年)

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールは、フランス革命からナポレオン時代、そして王政復古、七月王政に至る激動の半世紀を生き抜いた、フランスを代表する政治家・外交官です。

聖職者への道と革命

幼少期に足を痛めて歩行に障害を負った彼は、貴族の次男として聖職者の道を歩むことを運命づけられました。やがてオータン司教に就任します。

1789年の三部会では第一身分(聖職者)の代議員として参加し、国民議会では教会財産の国有化を提唱するなど急進的な姿勢を見せました。また、憲法聖職者団の長として革命を支持する聖職者たちを率いました。

亡命と外務大臣への就任

しかしローマ教皇との対立などにより教会との決別を余儀なくされ、一時アメリカ合衆国へ渡って亡命生活を送ります。

帰国後、総裁政府の実力者バラスの後押しを受けて外務大臣に就任。さらにブリュメール18日のクーデター(1799年)に参加したことで、ナポレオン体制下でもその地位を保ち続けました。

ナポレオンとの距離と二重外交

タレーランはナポレオンの征服戦争には賛同せず、表向き皇帝に仕えながら裏では反ナポレオン勢力と通じる二重外交を展開しました。この「裏切り」の評判は生涯つきまといましたが、彼自身はそれを「フランスの利益のため」と正当化しています。

ウィーン会議での活躍

ナポレオン失脚後の1814年、ルイ18世のブルボン朝復古王政のもとで再び外務大臣に就任。翌年のウィーン会議では敗戦国フランスの代表として臨み、勝利した列強諸国(四大同盟)の間に対立の種を巧みに植え付けることで、フランスを国際社会へ復帰させ、領土と名誉を守り抜きました。これは彼の外交手腕の最高峰とされています。

晩年

その後、ルイ・フィリップの七月王政下では駐イギリス大使を務め、英仏協商の基礎を築きました。1838年にパリで死去し、その波乱に満ちた生涯に幕を下ろしました。